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直江兼続と白根大凧合戦  熱戦/白根大凧合戦

直江兼続と樋口兼光  上杉景勝と直江兼続の生誕地・南魚沼上田庄  上杉謙信と栃尾城

直江兼続と直江石堤  直江兼続とお船の墓所 米沢・林泉寺
このページの内容

白根大凧合戦の由来  世界一の大凧  凧の起源   直江兼続の年表と業績

直江兼続の信濃川治水事業  信濃川は何故東方向へ   直江兼続の直江状

直江兼続と白根大凧合戦

新潟県旧白根市(現在は新潟市)の白根大凧合戦は毎年6月第一週(木)〜(月)の5日間行われます。
大凧は、畳の大きさで24畳(縦7m 横5m 和紙324枚張り 重さ50kg)の物が揚がります。
しろね大凧と歴史の館
白根地区と味方地区で中ノ口川を挟み、東西に分かれて凧を絡ませ、
綱引きの要領で綱を引き、綱が切れる最後まで勝負を競います。
しろね大凧と歴史の館には、現物の大凧が展示されています。
新潟市南区のイメージカラーは、ブリーズブルー。青空とそよ風のイメージのようです。
味方地区の堤防脇公園には、大凧合戦写真や凧音頭の流れる石碑があります。
2010年と2009年の白根大凧合戦は熱戦/白根大凧合戦へどうぞ。
白根大凧合戦碑 凧音頭
白根大凧合戦が撮影された映画『トラック野郎 度胸一番星』(1977年)、『男はつらいよ 旅と女と寅次郎』(1983年)
トラック野郎度胸一番星/ロケ地 男はつらいよ旅と女と寅次郎/ロケ地白根
それぞれ映像クリックで映画ロケ地紹介です。

白根大凧合戦の由来

中ノ口川は昔、直江川と呼ばれており、細く浅い川で、大雨の度に氾濫し洪水を繰り返していました。
大河津分水ができる前、江戸時代中期に直江川の改修工事が行われ、旧味方村の笹川様(現在の笹川邸)の先人が、
財産を投資して民による人力掘削により川底を低く、川幅を広くして造られました。
この工事は1737年(元文2年)に完了し、旧白根村の中を川が流れ、東西に分断されました。
この由来により、水利権は旧西蒲原地区にあり、白根郷土地改良区は信濃川に水利権を有する事になったようです。
この白根大凧合戦は、その工事の完成を祝って、1737年(元文2年)に東白根(旧白根町)の人が、
領主の新発田藩からほうびとして凧をもらい受け、白根側から揚げた凧が味方白根の家に落ち、田畑を荒らした事により、 怒った味方白根側も凧を揚げ、仕返しした事に始まったと伝えられています。
これ以降、約270年もの間、夏の風物詩として続く伝統行事となり、白根の人々の活気あふれるお祭りとなっています。
 一説によれば、盛土をした堤防をしめ固める為に、大勢の民で大凧行事をしたとも推測されるようです。
 また6月に行われる白根大凧合戦は、現在の5月の節句(旧暦は6月)にあたり、節句とも呼ばれています。
上杉景勝の大凧 直江兼続の大凧
 1574年(天正2年)袖山半兵衛が白根を開拓したと言う。 1737年(元文2年)袖山忠兵衛(3代)は新発田藩内において、三人とないと言われた名里正であったが、元文2年5月、 直江川(現:中ノ口川)改修工事竣工のため殿様に招待されて御殿に参上したが、あたかも藩公においても男子出生があり、 その祝いのために席上に三十枚張りの凧が飾られてあった。 袖山忠兵衛はそれを拝領して帰ったが、新しい堤防上でそれを揚げてみたくてたまらず、はなおをつけ、若者に揚げさせたのであるが、 技術もわからず工夫したらなかったので、対岸の袖山又衛門の屋根を損傷し、農作物を荒してしまった。
 元来、対抗意識の強かった又衛門は烈火の如くに怒り、自分も凧を作って若者に揚げさせ、袖山忠兵衛の屋根にたたきつけた。 それがきっかけとなって、ある時は川で物を洗う女にからまったり、群れ遊ぶ小児にぶつかったりして、益々激しい敵対感を誘発して、 お互いに敵の凧をからめ取ろうとするようになり、遂に凧合戦が現出したと伝えられている。 尚、当時の川幅は約三間(5.45m)くらいだったと言われている。(凧ものがたり)
『白根市凧合戦に関する年譜』(昭和53年7月3日)より
一般的にはこのような由来であると、子供の頃からの言い伝えですが、この白根大凧の起源はもっと昔の説があり、
昭和47年5月25日発行の広報しろねによれば、直江工事(下段に記載)後の頃の起源説があるようです。
そうなると300年以上前とも350年以上前とも推測されますが、その記録は無いとの記述がされています。
 上杉謙信の後をついだ上杉景勝は重臣の直江山城守兼続に命じて天正2年・1574年より慶長2年・1597年にわたり中ノ口川を掘らせました。 その川幅は狭く、わずか2〜3間で、いずれも歩いて渡る事のできるものでした。 従来領主の違う関係から、自然に東西の両白根は意思の疎通が欠け、互いにあい反目してきました。
 その頃、東白根(新発田藩領)には四郎兵衛が、西白根(村上藩領)には又右衛門という農夫がおり、一日両家の子供が岸をへだてて、お互いに凧をあげて遊んでいました。 ところが、あやまって双方の凧糸がからまり引き合いになり簡単に四郎兵衛の子供に引き切られました。 又右衛門は大変無念に思い、大きな凧と糸を新調し付近の若者どもを集め、からめあいを挑みました。 一方、四郎兵衛方も相応のものを調製して、これに対抗した事が起因だとの説です。
『広報しろね』(昭和47年5月25日発行)より
白根大凧 明治維新後、数年間は一時中止されましたが、明治10年に復活してからは、年々凧の大きさが大きくなり、現在の大凧の大きさになりました。
また西白根が白根村から西白根村の独立した村名になったのは、
1649年(慶安2年)の頃のようです。
左の写真は、数年前、“JA白根市”の切花部会で参加した写真。
大凧の大きさが人の背高の3倍ほどあります。
この大凧は、揚げた際に対岸に向って凧が傾くように、引き綱に巻きつける大凧の“はなお”の長さを巧みに調節してあります。 互いに対岸に向って大凧を揚げ、Xの形で絡み合いに挑み、絡んだ大凧同士で綱引きをします。綱の切れた方が負けです。

【直江川 (中ノ口川)】は、戦国時代に、与板(現在の長岡市与板)城主だった直江兼続(なおえかねつぐ)が、 蒲原平野の信濃川の治水事業を計画し、現在の燕市から新潟市西区大野まで地元農民や町民により掘削された総延長約32キロの人工川です。
平成21年のNHK大河ドラマ「天地人」に登場する直江兼続は、白根に大変ゆかりのある方です。演ずるは、俳優妻夫木聡さんです。
第1回の放送は、平成21年1月4日(日)です。

世界一の大凧

1980年(昭和55年)3月20日、フジテレビの番組「チャレンジ・ザ・ギネス80」の依頼で、
当時1975年にアメリカのカリフォルニアであげた245.2uの洋凧に挑戦しようと、266u(161畳分)の大凧を
2ヶ月余りをかけて製作し、白根の凧人300人が宅地造成中(現在の白根大通小学校付近)の
白根の大通地区に集まり挑戦しました。
ギネスの大凧 クリックで拡大
大凧を揚げる際には、大凧を起こすためにクレーンを用意し、早春の風に乗って大凧を空高く揚げました。
このニュースはいち早く世界の凧界に伝わり、みごと新記録樹立となり、
ギネスブックに登録され、ギネス認定証をもらい、世界一を誇る白根大凧となりました。
1980年(昭和55年)4月2日にオンエアされました。
大凧製作時には、入る体育館などがないため、大凧を4分割して作り上げ、彩色の際にも同じものを使い、 当日現地に運び白根独特の凧師の技術で組み上げられ、大凧を立たせる技術も白根の凧師の技の見せどころだったとの事です。
ギネスブック認定証
また、この撮影が終了した時点で、この大凧は天国へ葬られたとの事です。当時のギネスの認定証です。
残念ながらこの翌年1981年には、オランダのパラフォイル凧が553uの大凧を揚げ、記録は破られてしまいました。

「現在では、ニュージーランドのピーターリンという大凧が600畳(タテ25m×ヨコ40m)の大きさで世界一です。
アメリカとクエートと日本に同じ物があります。メーカーは大凧挑戦は止めようと、同じ物を作りました。
ちょうどふとんを浮かべたような形で揚がります。吹流しのようでもあります。」
(談:白根大凧の遠藤さん)

凧の起源

凧の起源にはいろいろ諸説がありますが、しろね大凧と歴史の館によれば、 日本で凧の記録が登場するのは、934年(承平4年)に出された「倭(和)名類聚抄」(わみょうるいじゅしょう)の中で、 紙老鴟(しろうし)という漢名で凧を解説しています。

直江兼続(1560〜1619)の年表と業績

1560年(永禄3年)南魚沼市(旧六日町)坂戸生まれ 農家出身
本名:樋口与六 愛称:お六 六日町にお六甚句がある
1573年(天正元年)坂戸(現在の南魚沼市)城主長尾景勝(後の上杉景勝)の小姓として仕える
1575年(天正3年)一時小姓を辞め百姓をする
1582年(天正10年)春日山(現在の上越市)城主上杉景勝の命を受け、
与板(現在の長岡市与板)城主直江信綱の死後の後継となる
妻はお船(おせん) お船が再婚で兼続が婿入り
景勝の命は天正9年であったが、与板に入ったのは天正10年であり、
天正11年に山城守を名乗った
1598年(慶長3年)豊臣秀吉の命を受け、羽前米沢(現在の山形県米沢市)城主となる
1619年(元和5年)江戸の屋敷にて死亡 享年60歳 墓所は米沢市林泉寺
■与板城主時代の主な業績
 ★「にしきおり」(後の越後ちぢみ)の生産増加と技術向上
 ★内山和紙の販路拡大とこうぞ・みつまたの栽培奨励
 ★信濃川堤防の構築
 ★刈羽(現在の柏崎市)鯖石川上流部の藤井堰造り
 ★西川の掘削
 ★ 直江川(後の中ノ口川)と福田川の掘削
■米沢城主時代の主な業績
 ★直江石堤の構築
 ★農地検地と開墾増産や滋養強壮の「うこぎ」の栽培奨励
 ★宿駅伝馬の制を確立、武家町・寺町・町人町の整備
《参考文献 千野金太郎先生著:「直江山城守兼続」(非売品)》
《参考年表 WebGuide阿賀野 西暦と和暦の対応表リンク

直江兼続の信濃川治水事業
直江川(中ノ口川)と福田川の掘削

蒲原平野を流れる信濃川の治水事業の歴史は、 「新潟平野の生いたち」信濃川本流は何処リンク
(新潟大学理学部 卯田強先生著)によれば、大永年間(1500年代前半)に始まりました。
当時の信濃川西川を本流としており、大永年間に刈谷田川まで開削され、下流の大通川に分流されました。
1580年頃までは、蒲原平野は信濃川本流と複数の川からできる三角州状の沖積平野を形成し、
雪どけの春先、夏の梅雨時、秋の長雨時などは洪水にたびたび襲われたと思われます。
島がしら
1582年(天正10年)与板城主となった直江兼続は、信濃川の治水に思いを馳せ、信濃川の流れを分水し分流し、
洪水になっても被害をなくそうと、蒲原平野(新潟平野)の治水事業を開始しました。
与板周辺(現在の長岡市与板)の信濃川堤防の構築と、信濃川本流だった西川の新規川筋工事を行いました。
大河津ー牧ヶ花(現在の燕市)の西川の新規川筋掘削工事が、1582年〜1587年に行われました。
この工事と平行するように、直江兼続は、五十嵐川から続いていた中ノ口川の改修工事
(後の直江川と呼ばれる)と、更には当時福田島があった旧白根市新飯田から加茂市鵜ノ森方向の下条川
(かつて五十嵐川が加茂市天神林で合流していた川)に向って加茂川までの川を計画し、
民により掘削され、福田川として機能させました。対岸の人と会話ができる程の川幅しかなかった川は、
信濃川本流として加茂市鵜ノ森方向へ、支流として西蒲区六分方向へと拡張されました。
この直江川と福田川の完成により、旧白根市新飯田は島の最上流部になり島頭となりました。
国土交通省北陸地方整備局信濃川河川事務所ホームページリンクによれば、
この工事が直江工事と呼ばれるもので、1582年(天正10年)から1597年(慶長2年)に行われました。
直江工事に関して、地形学がご専門の新潟大学理学部・卯田強先生より解説をいただきました。
 当時の戦国大名はことのほか河川土木に熱心で、武田信玄などは信玄堤と呼ばれる独特な治水堤防を発明し、 農民を直接統治しました。信玄堤は江戸時代になると霞堤とよばれ、富山県の神通川などには今でもみることができます。 上杉謙信がどのような意志を持っていたか定かではありませんが、越後平野のことに無頓着だったとは到底思えません。 信濃川治水事業は、あるいは謙信の長年の思いだったかもしれません。
 あるいは、直江工事は景勝の命だったかもしれませんが、もともとは直江兼続が計画を発議し、景勝の許可を得たのかもしれません。 この頃の大名・城主は農民に近く、のちの江戸時代の支配者としての殿様とは違って、はるかに民百姓の状況をよく理解していた人達が多かったように思います。
 地形学の立場からすると、戦国の真っ只中の時代の新潟平野は現在の巻から白根付近より新潟まではほとんど水浸しの湿原で、開発はままならなかったと考えられます。 信濃川西川に、刈谷田川大通川に、五十嵐川中ノ口川に流れ、 現在の大河津ー三条から巻ー白根間は広大な三角州でした。それより上流は長岡までがこれまた広大な氾濫原で、直江工事はこの地形的境界を狙って計画・実施されています。 地形図を見るとこの場所に標高10mの等高線が現信濃川と平行に走っています。おそらく直江工事は位置的には最適の場所だったと思います。
 ここは大永年間に三条城主山吉氏が信濃川を刈谷田川(下流は大通川)へ分水してしまったため、おそらく横田切れのような洪水が頻発していたことでしょう。 これを解消するために直江工事を行って、さらに五十嵐川(下流は中ノ口川)へ流すことを計画したのだろうと思います。 この際大河津から刈谷田川までの改修も行われています。
 しかし、直江工事だけでは目的を果たせず、結局信濃川は加茂川まで延長せざるを得ず、それに伴って五十嵐川、中ノ口川も改修を余儀なくされています。 この結果、大河津ー三条間の信濃川右岸川のもともと氾濫原で低地・湿地だったところがいっそう排水が悪くなると言う事態ができ、中之島から栄町にかけて輪中ができてしまいました。
1598年(慶長3年)の上杉景勝の会津移封後、加茂市鵜ノ森方面の信濃川堤防は、新発田藩主となった溝口秀勝により、 1599年(慶長4年)3月より築堤工事が行われました。直江川中ノ口川と呼び名が変わった理由は定かではありませんが、 西川を信濃西川、現信濃川を信濃東川と呼んでいた時期があり、この際、直江川が中ノ口川に変更されたようです。
新発田市立図書館所蔵の小吉三組絵図によれば、年代不詳ではあるが、燕市小高〜新飯田〜加茂市鵜ノ森に流れていた川(通称:直江川と福田川)は本川と記されており、 三条市大島〜加茂市天神林〜加茂市鵜ノ森に流れていた川(現信濃川)は、五十嵐川と記されている。
新飯田〜大野までの現中ノ口川は、中ノ口川と記されている。(加茂市史より)
LandSatの衛星写真に位置を加筆しました。2枚の上下に少し誤差があります。
(LandSatの衛星写真の原本提供:阿賀野市WebGuideリンク)
信濃川治水

信濃川治水
直江兼続は河川沿岸関係者(豪族や庄屋など)を参集させ、工事計画を説き協力を要請しました。
また直江兼続は、直江川の工事祈願を筆に込め、加茂市長福寺山号「瑠璃山」を大額面として長福寺に奉納祈願しました。
1598年(慶長3年)、会津へ国替えした上杉景勝に追従した長福寺は、この大額面を置き捨てて行き、
現在は加茂市下条の法音寺に所蔵され、本堂に掲げられています。
  『瑠璃山』が直江兼続自筆の大額面で、この写真は千野先生が手配されたものです。クリックすると拡大します。
右側が兼続の花押。この写真の転用禁止。
法音寺 瑠璃山
会津へ移った加茂市長福寺は廃寺となり、村の人々は溝堀に倒れていた楼門の仁王像をあるお宅にお堂を建て安置しましたが、 長い歳月の末、法音寺へ仁王像は移され、明治の頃更に腐食が進み、村の彫師の牛腸(ごちょう)さんと三条の宮大工さんにより、 仁王像は二体解体修理され、村の歴史文化財として残され現在に至っているとの事です。
また、長福寺の御本尊=大日如来座像は、加茂市下条中村の光徳寺に安置されており、
こちらも村の歴史文化財として残されているとの事です。
この瑠璃山長福寺は、加茂市下条長福寺集落の長福寺橋より約1kmの標高70mのところにありました。
ここより更に2kmほど山奥には、標高100m余の姫ノ城という戦国時代の山城の一郭、のろし台などが今も残っているとの事で、 1600年(慶長5年)の越後遺民一揆に利用された城です。
三条市大島の信濃川 三条市大島から中ノ口川
その後信濃川は、村上藩主となった松平直矩によって、万治工事(1655年〜1660年)が行われ、現在の信濃川河道となりました。
この際に燕市佐渡から加茂市鵜ノ森までの中ノ口川(直江川)と福田川の改修工事も行われ、更に掘割・拡張され、
中ノ口川(直江川)は旧白根市新飯田から分岐し、福田川として信濃川に合流するようになりました。
1658年(万治元年)に現在の燕市道金地区の中ノ口川河道となり、この工事の際には道金村の住民が三条市今井地区(旧南蒲原郡栄町)への移転をしたとの事です。 またこの際に、三条市大島地区の信濃川から中ノ口川(直江川)に流れ込んでいて、水位差が2尺ほどあった箇所が、現信濃川を本流化するために塞がれました。
《写真左上の三条市大島地区の信濃川上流から写真右上の中ノ口川(直江川)へ向かって流れ込んでいた水位差が2尺ほどあり、この辺りの地帯が塞がれました。 信濃川と中ノ口川が最も接近する三条市大島三方にて撮影 同位置の左と右で180度》

現在の三条市大島地区や代官島地区や荻島地区は、直江工事後に大島という島になり、
万治工事後は須頃島とつながりました。
直江町
《お詫び:以前に直江町は、直江兼続に由来し、昭和56年施行実施された全国住居表示法にあわせて・・・
という事を記述しておりましたが、調査の結果、正確な年がわかりませんでした。
昭和45年の地図にはすでに出ておりましたので、削除させていただきました。》
その後の江戸時代、新潟と長岡の間の交通手段は、信濃川と中ノ口川を舟が行きかい、
明治時代になるとポンポン船(蒸気船)が行きかうようになり、
ちょうど中間の旧白根市新飯田は港町として商人で賑わいを見せていました。
現在の新飯田商店街の堤防脇(神明宮より堤防脇)に港がありました。
かつての福田川は万治工事後、五十嵐川からの直接流入がなくなった事と水量の減少により、
元禄年間の頃(1688年頃)から土砂が次第に堆積するようになりました。
1828年(文政11年)11月12日の三条地震で川底が隆起し、
通水が不可能となり、今は両岸の堤防が残されていますが、旧白根市は三条市と陸続きとなりました。
当時の洪水の様子を詠んだと思われる歌が伝承されています。
『井戸場 代官島 流れどこ 前の荻島 鬼が住む』
《参考文献 千野金太郎先生著:「直江山城守兼続」(平成20年11月)
および「新飯田中学校30周年記念誌」(昭和51年1月)》
《千野先生のお話および地元古老の口碑伝承》

信濃川は何故、東方向?

直江工事が始まる前の信濃川本流は現在の西川だったようです。
何故、信濃川河道を東方向に向けたのか?この年代1582年(天正10年)の状況で私なりに推測してみました。
蒲原平野の西は、天神山(現在の新潟市西蒲区)に小国重頼、吉江村(現在の新潟市南区)に吉江宗信が、
東の護摩堂山(現在の南蒲原郡田上町)に甘糟景継が、領主として統治していた。
お六(兼続)が直江家へ、与七(実頼)が小国家へ共に養子として向った年である。
与板に行った兼続は、信濃川下流域の悲惨な状況を見たに違いない。
戦国時代大名の力は石高で地位を表していたところから上杉家の新田開発もこの頃から始まったと思われる。
上杉家に仕える小国氏や吉江氏、甘糟氏の協力や考えもあったのであろう。
 当時の地形から考えると、西側は山と砂山が新潟津(信濃川河口左岸)まで連なっていた。
排水できるところは新潟津までなかった。鎧潟ー白蓮潟から北は海抜ゼロメートル地帯(海水面より低い地帯)である。
いかに海岸まで川を流すか、できるだけ標高の高い位置から徐々に下るしかない。
直江兼続はそう考えたと推測します。更には、1581年(天正9年)に新発田城主新発田重家が新潟津を占拠し、
上杉家と戦っていた時代であり、上杉家の思惑(陣地固め)もあり、
戦略的防護として信濃川河口左岸を攻撃をする為の手段としても
直江川福田川の掘削が行われたのではと推測してみました。
三条島ノ城 新潟市歴史博物館発行の「絵図が語るみなと新潟」によれば、『1581年(天正9年)から1587年(天正15年)にかけて、
上杉景勝と新発田重家は信濃川と阿賀野川の河口の支配をめぐり、抗争した。』とあり、当時の蒲原平野の川は新潟に集まっており、 湊(港)を手に入れる事が越後を統治するために重要な事であったという戦いでの内容が記述されています。
卯田先生の「新潟平野の生いたち」において、1598年(慶長3年)に三条城主・堀直政が刈谷田川から五十嵐川まで延長して結んだとあり、 直江兼続の意思を受け継いだとも考えられます。
歴代三条城主は、旧白根市新飯田の歴史へどうぞ。
その頃三条島ノ城は三条市須頃付近にあったようです。1581年(天正9年)に新発田重家との攻防の際から上杉家は三条島ノ城を拠点とし、 この際の最前線基地は、木場城および護摩堂山城でした。 たび重なる洪水から須頃島を防護するため、言いかえれば三条島ノ城を防護するため、 五十嵐川の改修工事(直江工事)が行われたのもひとつの理由と考えられます。それでも続く洪水のため、 須頃島を取り囲むように現信濃川本流の河道が1598年(慶長3年)に堀直政によって掘削されたのだろうと推測します。 しかし、それでも洪水はなくならず、1598年(慶長3年)に五十嵐川の洪水の記録が残されています。 その後、河道の変化で川欠けとなり三条島ノ城は崩落し廃城に追い込まれてしまいました。 三条島ノ城は1610年(慶長15年)にいったん廃城になります。

また、「三条古城御代略覚」などには、三条城主・市橋長勝が、新城のお堀に水を引くために1618年(元和4年)までに、 燕の八王寺から三条町付近へ流れる新しい水路を掘割し、信濃川の流路を替えるべく、八王寺付近で3〜4間の掘割をしたところ、 7〜8年で大川になったとの記述がされています。 次項で直江状の要訳をしておりますが、その直江状(1600年4月14日 直江兼続が豊光寺に宛てた書状)の文面から 直江兼続の意が汲み取れる個所を現代語で私なりに解釈してみました。 直江兼続は直江状の中で、工事状況の道作りについて、豊光寺(西笑承兌)からの詰問状に対する返書だったのですが、 その心の奥底では、越後でしてきた工事は信濃川治水事業である事を述べたかったのではないでしょうか。
一、第三に道作りは、舟、橋を作れと(景勝が)申しつけ、往還のわずらいがない様に、国を相抱えこの役を全うしておる事で、このような事であります。 越後の国においても舟、橋、道を作ってきました。しからば、(まだまだこの工事の)残りがはしはしにあってもこれが有る事であります。 淵底は(=詳細は)堀監物(堀直政)が知っているはずであります。(内府様の堀直政も知っているではありませんか。)・・・ (景勝が)当国(会津)へ移ってこられ、(堀直政は)新しい仕事もこれなき事にあります。本国(越後)の久太郎(堀秀治)を踏みつぶすのに、何の手間が入りましょうか。 道作るまでには行き足らず。(道作るまでもないでしょう。)・・・(中略)・・・堀直政ばかりが道作りに恐れていると色々の儀を申しております。
おそらく1598年の五十嵐川の洪水により、三条島ノ城周辺は水浸しとなり、堀直政は道作りどころではなかったのかも知れません。 千野先生のお話と合わせると、直江兼続は16年間の長きに渡った先の見えない工事の完成を、長福寺にすがる思いで祈願し、 大額面『瑠璃山』を奉納したのではないかと、ますます奥深い念が感じられます。
直江兼続は意思半ばにして、1598年(慶長3年)に上杉家の会津への国替えを命ぜられた、と思います。
折りしも長福寺は、下条川の最上流部にあった談義所でした。
『羽後成就院古文書写』
 「瑠璃山長福寺は寺領廿五石中、越後加茂と云う所にこの寺号あり、談義所と名づく」
   (談義所とは、仏法教典について議論するところ  羽後は会津)
            千野金太郎先生著:「直江山城守兼続」より
広報しろねの天正2年から工事が始まった説とすれば、上杉謙信あるいは景勝がすでに加茂の状況までもよく知り得ていた事にもなり、 工事計画はこの頃よりあったとも考えられます。 また、旧白根市新飯田は上杉時代には、蒲原郡須田村(現在の加茂市後須田)にあった須田城の配下にありました。 須田城主・須田相模守満親は武田信玄によって追われ上杉謙信を頼り、 1560年(永禄3年)にこの地に築城し城主となりました。その長男・須田満胤(別名は光義)の妻は直江兼続の妹・きたであります。 景勝時代には、次男の須田長義(別名は大炊之助)が城主になりました。直江家と須田家は親戚関係になりました。 直江川の計画の際に、須田家から当地の様子などを容易にうかがい知る事もでき、 加茂川までの福田川計画もスムーズに事がはこんだのではと想像できるものです。 蒲原平野(新潟平野)の穀倉地帯の基礎を作った上杉家。農家出身の直江兼続だからこそ、成し遂げられた偉業と言えよう。

直江兼続の直江状

この大工事の完成を聞きつけた豊臣秀吉は、直江兼続と上杉景勝を驚異に感じ、自国に攻めいられては天下を失う事にもつながりかねない為、 上杉景勝に会津120万石、直江兼続に米沢30万石を与え、国替えを命じたと、千野先生は話されます。
当時の越後の石高は、50万石とも55万石とも色々と推測があり、破格の抜てきで会津への移動だったのでしょう。
その後、大坂伏見城にいた徳川家康は、たびたび上杉景勝に上洛を勧めるものの一向に返事がない事に加え、
城の改築工事や城下整備を「上杉家に謀反の疑い有り」と疑心暗鬼のため、本多佐渡守に真相を探るように命じました。
本多佐渡守正信は、信仰している京都の妙心寺に直江方の動向をうかがい、京都の妙心寺は親寺であり
豊臣家が信仰している豊光寺に依頼しました。豊光寺が直江山城守兼続に宛てた内容です。
わざわざ飛札を以て申達し候、然れば景勝卿上洛遅滞について、内府様御不審候儀少なからず候、上方雑説穏便これなく候に付、伊奈図書(伊奈昭綱)・ 河村長門差下され候、此段使者口上申達すべく候へども、多年申通じ候上は、愚僧笑止に存じ此の如くに候、香指原新地(神指原新城)取立てられ、 越後津川口の道橋作られるの段、何篇然るべからず候、中納言殿分別相違候とも、貴殿御異見油断に存じ候、内府様御不審拠んどころなきに存じ候こと。
(中略)景勝の起請文のこと、景勝の律儀なことは内府も存じているから、弁明さえあれば嫌疑がはれること、堀監物が告発しているから、 これに対する陳謝が必要なこと、増田長盛大谷吉継が万事仲介するであろうこと、朝鮮の再征をしなければならぬかも知れぬ、などのことがある。
一、当春北国肥前守利長異儀の処、内府公順路思召しなされて、別儀なく思いのまま静謐仕り候、これみな前車の誡めにて候間、其元かねて御覚悟尤もとなすべきかのこと。
一、千万(の弁解)も入らず中納言殿御上洛遅延候に付此の如くに候間、一刻も早く御上洛候様、貴殿あい計られるべきこと。
一、上方に於て専ら取沙汰のことは、会津にて武具集められ候と、道橋作られ候のことにて候。
一、愚僧と貴殿数か年等閑なく申通じ候へば、何事も笑止に存じ此の如く候、その地の存亡、上杉の興廃の境に候条、思案を廻らされるの外、他事あるまじく候、 万端使者に申含め口上候、頓首

                豊光寺
      卯月朔日        承兌
       直江山城守殿  御宿所
《渡辺三省著:『直江兼続とその時代』(昭和55年10月)より・・(上杉年譜)》
直江兼続から返書が京都の豊光寺に届きました。これが世に言う直江状であります。
(1600年/慶長5年/4月14日 直江兼続が豊光寺に宛てた書状)
この直江状の内容の全文を現代語版で私なりに相当にあやしい解釈をしてみました。
今月1日の尊書、昨13日に着きまして、つぶさに拝見いたしましたこと多き幸せにあります。

一、当国の儀、そこ(大坂京都)において、色々と雑説(噂)がお有りと内府様のご不審がある事は、もっともやむを得ない事でございます。 なぜなら京都伏見と大坂の間でさえ、色々と雑説(噂)がやむ事はありません。ましてや遠国の景勝、若輩と言い、雑説(噂)があるのでしょう。苦しい事にはありません。 尊意をおだやかにされ、つれづれと聞いていただきたく存じます。

一、景勝が上洛を延ばした事はどこが不審と申されておるのでしょう。おととし国替えして、昨年9月に国へ戻り、今年正月に上洛せよと申されましたが、 いつの間に仕置きをしたらいいのでしょうか。就中(なかんずく=とりわけ)、当国は雪国にて、10月より3月までは何事もできない状態にあります。 当国の案内者にお尋ねしていただければわかる事でございます。正月中から雑緒(噂)を企て上洛延引の故にこれ有りと、何者かが、 景勝の逆心有りとつぶさに思い込み申した事なのでしょう。

一、景勝において別心なきは、誓書をもって申し上げられとの事ですが、おととし以来、数通の起請文が反古になり、重ねて申し入れする事はいらないでしょう。 (これ以上申し入れしても無駄な事でしょう)

一、太閣様(豊臣秀吉)以来、景勝が律儀な仁(人)と思われていて、今も別儀はありません。世に言う朝変暮化(ちょうへんぼか)とは相違います。

一、景勝の心中は、毛頭にも別心などはなく、ざんにん(事実を偽り申す者)の申した事をご糺明(きゅうめい=問いただす事)なく逆心と思われた事は、 是非(善悪を論ずる事)には及びません。兼ねてまた、等閑(とうかん=いいかげん)でない(=親しき)験(しるし)には、ざん者(事実を偽り申す者)が引き合いされ、 是非ともお尋ねしていただきたい。左様(さよう)なこれなき事は、内府様の御表裏があるのだと存じます。

一、北国肥前殿(前田利長)がお考えのままに、おおせられた理由は、御威光(いこう=恐るべき勢い)浅からず事に存じます。

一、増右(増田長盛)大刑部少(大谷吉継)御出頭(しゅっとう=出向く)の理由は、珍重であります。自然に用所の儀は、申し越しされるべきであります。 榊式太(榊原康政)は、景勝の表向きの執頭(取次ぎ役)にございます。しかれば景勝の逆心が歴然ならば一応の意見に及びてこそ、士(さむらい)の節目、 又は内府様の御為にてなされる所、左様(さよう)の分別こそ相届かない事で、ざんにん(事実を偽り申す者)の堀監物(堀直政)の奏者(=伝達者)をされ、 種々の才覚(=くめん)をもって妨げ申さざる儀、これ分別無きであり、忠臣か伝人か、御分別次第で、重ねて頼むべき事であります。

一、雑説(噂)の第一に、上洛延引の御改めを申したのは、右の申し定めたごときに御使者にも委ねて申し上げます。

一、第二に、武具を集めています事、上方武士は今焼茶碗や炭取りふくべ、などなど人たらし道具をご所持され、田舎武士は鉄砲、鑓(やり)弓矢、の道具を支度申しております。 この事は、その国々の風習と思われる事で、ご不審があったのでしょう。世に言う、「これなき支度不似合いの道具を用い」と言われるように、 景勝は不肖の(おろかな)分際(身分)であり、何程の事がこれにあるのでしょうか。天下に不似合いのご沙汰(知らせ・たより)と存じます。

一、第三に道作りは、舟、橋を作れと(景勝が)申しつけ、往還のわずらいがない様に、国を相抱えこの役を全うしておる事で、このような事であります。 越後の国においても舟、橋、道を作ってきました。しからば、(まだまだこの工事の)残りがはしはしにあってもこれが有る事であります。 淵底は(=詳細は)堀監物(堀直政)が知っているはずであります。(景勝が)当国(会津)へ移ってこられ、(堀直政は)新しい仕事もこれなき事にあります。 本国(越後)の久太郎(堀秀治)を踏みつぶすのに、何の手間が入りましょうか。道作るまでには行き足らず。(道作るまでもないでしょう。) 景勝の領分の越後の儀は申すに及ばず、上野・下野・岩城・相馬は(伊達)政宗の領、最上・由利・仙北へ相続き、いずれも道作り同前であります。 自余の衆は何とも申しておりませんが、堀監物(堀直政)ばかりが、道作りに恐れていると、色々の儀を申しております。 よくよく弓矢を知らない無分別者と思われるべきです。景勝が天下に対して、逆心の企てこれありは、諸境目・堀切りを塞ぎ、防戦の支度こその仕事になりましょう。 十方へ道を作りつけて、逆心の上、自然に人数を向けさせても、一方の防戦でさえまかりなるものの、どうして十方を防戦できるものになりましょうか。 たとえ他国出兵に取られても、一方へこそ景勝は相当の出勢兵力がありますが、いかがして十方を防戦まかりなりましょう。 なかなか是非にとは及ばないうつけ者(ぼんやり者)と存じます。景勝が領分の道・橋を作る事と申し付けた本体を、江戸より切々たる御使者にて、 白川口(白河口)の本体をご見聞なされるべきであります。その他、奥筋へも御使者を下されて、所々の境目などの本体を見ていただければ、 御合点いただける事にございます。

一、御等閑(とうかん=いいかげん)でない間にても(=親しき間柄にても)、虚言(噂)にまかりなる儀は、自他のためにおおせられた理由に存じますが、 高麗降参と申されないのならば、来年御人数をお使い遊ばされください。おおせられの通りか、虚説(噂)が誠か、一笑一笑。

一、景勝が今年3月は謙信の追善(供養)に相あたります。左様(さよう)の隙(すき=ひま)を明け、夏中には御見舞いのため上洛できる仕事内容であるゆえ、 人数武具をもって国々の仕置のために、国中にあるものを急いで相整える様にと用意申されたところに、増右(増田長盛)大刑部少輔(大谷吉継)より、 使者(伊奈昭綱河村長門守)に申し越された事は、景勝の逆心が穏便(おんびん=おだやか)ないとの事と、別心なきにおいては上洛がもっともなゆえ、 内府様ご内證(ないしょう=秘密)の事にて、とても御等閑(とうかん=いいかげん)でない者(=親しき者)のざんにん(事実を偽り申す者)が申しなした有様に、 急いでご糺明(きゅうめい=問いただす事)されてこそ、ご懇切(こんせつ=非常にねんごろな)の験(しるし)になると、意趣(いしゅ=考え)なく逆心と申しふれた事は、 別心なき者、上洛したまえなどと乳呑子(ちのみご)のあひしらい(=あやすように)言われた事は、是非(善悪を論ずる事)に及びません。 昨日まで逆心企てた者も、その事がはずれてしまえば、知らぬ顔して上洛してきて、あるいは縁辺(縁者)、あるいは新知行をとり、恥不足をも顧みず(かえりみず)、 人の交わりをなすのでございます。当世風は、景勝の身の上には不相応にあります。心中が別儀なく、逆心は天下にそれを隠す事がない者(=景勝)が、 むざと(惜しげもなく)上洛は、累代律儀の弓矢の覚えまで失います。ざんにん(事実を偽り申す者)が引き合いされ、ご糺明(きゅうめい=問いただす事)がなければ、 上洛はまかりなりません。右の趣、景勝理か非か。尊慮に過ぐべからず。(尊慮に過ぎずおわかりになりましょう。)就中(なかんずく=とりわけ)、 景勝家中の藤田能登守と申す者が、去年七月半ば(注★1)に当国を引き取り江戸へ移りました。それより上洛した事は、定めて(必ず)万事知り申します。 景勝の取り違いか、内府様の御表裏か。世に言うご沙汰(知らせ・たより)次第にあります。

解説:1600年の謙信の追善(供養)は23年忌にあたります。
注★1:藤田能登守と申す者「七月半」は「去月半」としてある直江状もあるとの事で、 「去月半」ならば3月半ばとなります。

一、千言万句もいりません。景勝の毛頭にも別心はありません。上洛の儀はできそうもない様にて、御仕懸の事はこれには及びません。 この上も、内府様の御分別次第に上洛できる事であります。たとえこのまま在国申し付けられて遠国にいようなら、太閣様(豊臣秀吉)の御署目に相そむき、 数通の起請文が反古になり、御幼少の(豊臣)秀頼様を見放し申す事となり、内府様へ首尾なく仕掛け、このほうより手出しして天下の主になったとしても、 悪人の名をのがれられず、末代の恥辱(ちじょく=はじ)になります。ここのところ、遠慮なしに何物を仕掛けるでしょうか?御安心なされてください。 ただし、ざんにん(事実を偽り申す者)の申した事、実儀に思われて、御改めなきは、不儀の御拘者(扱い)は是非(善悪を論ずる事)に及びません。誓紙堅約もいりません。

一、そこのところ、景勝の逆心と申している事、隣国(越後)においても、会津働とふれまわり、城に人数を入れ、兵糧までの支度、あるいは境目に人質を取り、 所々の口止めを仕掛け、さまざま雑説(噂)を言っている事は、無分別者の仕事にあります。聞きも入らない事であります。

一、うちうちに内府様へのご使者をもって御見廻りを申し述べようと思っていますが、隣国(越後)よりざんにん(事実を偽り申す者)が詰め打って、色々と申しており、 家中より藤田能登守が引き切り、逆心が歴然と思われている事、御音信など申し上げようとの者、表裏者の第一とご沙汰(知らせ)があろうし、 まずは、ご糺明(きゅうめい=問いただす事)のないうちは、申し上げれません。全く疎意これなき通り、折節(せっかく)のお取り成し、 我等においても畏み入り(かしこみ入り=恐れ入り)ます。

一、何事も遠国ながら推量された事にあり、あるように言われた事であります。当世間様に余情がましき事にあり、自然に事実もうその様になってしまいます。 申すまでも無く思えども、御目にかけられた儀と言い、天下の黒白を御存知の儀にあり、言われている儀は実儀になりましょう。御心安きまま、惜しげもなく書を進上いたします。 慮外少なからず、愚意を申し述べ、尊意を得るべきため、この憚り(はばかり=恐れ)をも顧みず(かえりみず)。侍者奏達 恐惺敬白

                    直江山城守
     慶長五年 卯月十四日          兼続
        豊光寺  侍者御中
多分にあやしい解釈ですが、簡単に言うとこういう事なのでしょう。
『河川整備、道の整備は領民のため、他の何もない。一国の主として当然の事である。 いちいち堀直政や藤田能登守が申しつけたそのような噂に言い訳するほど我々は暇ではない。道理に反するのは内府様でしょう。 内府様の仕掛けにはのりません。来るならどうぞ、いつでもお相手致そう。白川(白河)で待ち受けていますぞ。』
本多佐渡守から受取った徳川家康は、たいそう直江兼続を怒り憎んだと言われています。この事が天下分け目の関ヶ原の戦いの引き金となります。 義と仁愛に生きた戦国武将/直江兼続は、土木・治水の技術者としても有能な人物でした。 昭和史にある田中角栄氏が唱えた日本列島改造論に匹敵する戦国時代の日本列島改造論だったのではないでしょうか。 共に交通の利便性を求めた点では、共通する事業だったのでしょう。
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順境と逆境〜直江山城守兼続〜本サイトに使用した文章・文面は、中学時代の恩師・千野先生の『直江山城守兼続』と
新潟大学理学部・卯田先生の解説を中心に、直江兼続の治水事業について編集しました。

千野先生は昭和15年に六日町小学校、昭和42年に小千谷市北山小学校、
昭和45年に白根市新飯田中学校と教鞭(きょうべん)をとられ、
各所における伝承を中心に文献をまとめられました。
この千野金太郎先生の著書の正式名は『順境と逆境〜直江山城守兼続〜』です。
平成20年11月に自費出版で我々教え子や関係各所に送られたものです。
千野先生のご許可をいただき、本サイトに掲載させていただきました。

他の文献として、千野金太郎先生著『新飯田中学校30周年記念誌(昭和51年1月)』
『広報しろね』『白根市史』『三条市史』『新潟市史』『加茂市史』
『絵図が語るみなと新潟(新潟市歴史博物館)』などを参考にしました。
直江状の現代語訳については、福島県歴史資料館様より一部ご協力をいただきました。
私なりに解釈をさせていただきましたが誤訳もあると思います。

また当方が引用した文章等には、著作権があります。
これらを引用される場合は、文献名や筆者等をご明示ください。
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事実とは異なる推測の域もあろうかと思いますが、ご意見やご質問、または間違いなどがありましたら
雪ん子滝沢直紀(メールtakizawa-naoki08181@r6.dion.ne.jp)まで。
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直江兼続とお船

お船の父・直江景綱とお六(兼続)の母・お藤は兄妹(姉弟)の関係で、
お船とお六(兼続)は<いとこ>の関係です。
直江兼続像
長岡市与板歴史民俗資料館の直江像
お船生誕の地
お船の生誕地・当時の本与板城の直江邸は、現在の光西寺にあり
お六(兼続)は6人兄妹(男3人・女3人)であり、次男・与七は後の天神山城主大国実頼(おおくにさねより)
三男・与八こと樋口秀兼は樋口家を継ぐ。長女のきたは、須田城主・須田満親の長男・須田満胤の妻。
次女は、岩船郡平林(旧神林村)城主・色部光長の妻に、三女は篠井泰信の妻。
直江景綱は1577年(天正5年)の69歳の時、病気でお亡くなりになりました。
お藤は1585年(天正13年)にお亡くなりになり、既にお六(兼続)と与七(実頼)は坂戸を離れていました。

与板城

与板城があった城山は、標高104mです。山頂までは400mほどで約10分。
与板城址 与板城址
登山道入口でもらったパンフレットによれば「所望事信一字」とは、「望む所の事は信の一字」と読むとの事。慶長2年2月6日 直江山城守
城山の碑 与板城址からの展望
説明文には、信濃川流路についても刻まれています。与板城址からの眺め

天神山城

天神山城跡は、現在の新潟市西蒲区岩室温泉にあり、登山道入口は2箇所あります。
天神山城址 天神山登山道
登山道入口から山頂の本丸跡までは15分程、標高は234m、かなり急斜面の階段部分もあります。
天神山城址 天神山本丸跡
天神山本丸跡から岩室温泉と蒲原平野。
天神山展望台

須田城跡

1598年まで須田城があったとされる地は加茂市後須田の地蔵院。
地蔵院 地蔵院のクロマツ
推定350年の地蔵院の黒松。
地蔵院の黒松
長尾景虎(景虎は幼名、後の輝虎、上杉謙信)の父は長尾為景、 母は青岩院<栃尾栖吉(現在の長岡市栖吉)長尾家>の出身で、母は安産祈願で1530年(享禄3年)に加茂市青海神社に参拝し、 春日山に帰る途中の直江津で産気づき景虎が生まれた、と言う記述が加茂市青海神社の記録にあると言う事です。
上杉謙信は1578年(天正6年)に春日山城中にて脳溢血で死亡(享年49歳)し、
長尾景勝(上杉景勝)が後継となります。
長尾景勝(上杉景勝)の父は長尾政景、母は仙洞院(綾姫)で、上杉謙信の姉。

吉江城

上杉謙信に仕えた戦国武将吉江宗信は、西蒲原郡吉江村(現在の新潟市南区吉江)の吉江城主でした。
吉江地区
吉江城があったと推測される地は、新潟市南区吉江の高念寺付近。
味方地区や白根地区などを統治していたと言われています。白根の名がついた「城の根」に因るとか?
天正10年(1582年)魚津城にて吉江宗信自刀す。
天正12年(1584年)藤田能登守(吉江城主)、重臣根岸与衛門他十余人をして小吉郷を開発せんとする。
藤田能登守信吉は、1559年(永禄2年)天神山(秩父郡長瀞町)城主だった藤田重利の次男として生まれ、
武田家滅亡後に上杉家の家臣として、上野国の沼田(現在の群馬県沼田市)城代となる。新発田重家の乱の際、
上杉景勝の命により兼続らと共に新発田城を落城させた一人です。兼続のひとつ年上。

大面城

上杉景勝に仕えた上田衆の泉沢久秀は、
後に南蒲原郡大面村(現在の三条市大面(おおも))の大面城の城番になったとの事。
旧南蒲原郡栄町小滝地区に大面城跡登山道入口があります。
大面城登山口
登山道入口手前500mのところ(舗装道路の終点)に3台駐車できる駐車場があります。

護摩堂山城

上杉景勝に仕えた上田衆の甘糟景継は、 1577年(天正5年)に謙信の命により護摩堂山(南蒲原郡田上町)城主となり、1583年(天正11年)に景勝の命により五泉城主となる。
護摩堂山登山口 護摩堂山城跡
南蒲原郡田上町にある護摩堂山は標高274mです。ふもとは湯田上温泉で、登山口には50台ほどの駐車場があります。
山頂まで約1.7kmで、40分程で登れます。
山頂付近には、あじさい園があり
6月の時期には彩りがあざやかです。

黒滝城

上杉景勝に仕えた上田衆の深沢弥七郎は、1593年(文禄元年)に
西蒲原郡弥彦村の黒滝城の後継となり山岸尚家を名乗った。
黒滝城跡は黒滝森林公園となっている。

木場城

宮のもり木場城公園
木場城は新発田重家の乱の際の最前線基地となった。
木場城公園
お船の初婚相手の直江信綱(長尾景孝)は、もとは上野国(現在の群馬県)の長尾家の出身。
越後国に逃れてきて上杉家の家臣として仕えたとか。
堀直政は、1598年(慶長3年)上杉家の会津移封に伴い、豊臣秀吉の命により越後国を支配した。
堀直政と子の堀直清は三条城(1610慶長15年にいったん廃城)に、
越後国主の堀秀治は春日山城(1607慶長12年廃城)に、
堀直政の三男堀直寄は坂戸山城(1610慶長15年に廃城)にそれぞれ城主となった。

お六と桂姫

大河ドラマ「天地人」に登場する上杉景勝の妹は華姫です。
実は景勝には二人の妹がおり、もう一人の妹がいました。
六日町のお六甚句にある桂姫です。
小千谷市真人地区には桂姫にまつわる祠が祀られていると言う。

《千野金太郎先生著:「直江山城守兼続」より。ただしカッコは追加。》

<・・景勝には桂姫という妹があった。桂姫は大月(現在の南魚沼市)の“寺ヶ鼻”というところにある母の館で生活しておられた。 父・政景のご機嫌伺いに坂戸(現在の南魚沼市)へ訪れる事がたびたびあった。小姓お六(兼続)のりりしい風貌と智性あふれるものごしを目にとめた桂姫は、 いつしかお六(兼続)を恋慕うようになった。お六(兼続)もまた姫のあでやかな気品に満ちた立ちふるまいに心をひかれ、たのもしく思っていた。 景勝はこうした二人をあたたかく見守っていた。しかしこうした二人のお付き合いはいつしか城中の評判となり、二人の間をねたむ者さえ出てくるようになった。 お六(兼続)は自分の事でお家中が騒がしくなるのを恐れて、景勝に自分の心情を申し述べ、一時小姓を辞め家に帰り百姓をする事になった。天正3年お六(兼続)が16歳の時であった。 “お館の乱”も終わり、景勝が春日山城主になった頃、天正9年に与板城主直江信綱が急死した。景勝はお六こと樋口兼続に直江家を継ぐように命じた。 お六こと兼続が坂戸を去ると、桂姫はやるせない恋情傷心の身を坂戸から遠く離れた真人村北山(現在の小千谷市真人)の高原台地に癒やす事になった。 しかし不幸にも病がちな姫は若くして亡くなった。屋敷跡には祠が祀られている。集落の名は姫の名にあやかり、“桂”という。集落の人はすべて樋口姓である。・・>

千野先生のお話によれば、この北山集落の樋口姓は、木曽義仲の四天王の一人である樋口次郎兼光がこの地に来住し、 その子孫が樋口兼続(直江兼続)の父・樋口惣右衛門兼豊にあたると伝わっているとの事で、北山集落は兼続の第2の故郷なのかも知れません。 詳しくは直江兼続と樋口兼光へどうぞ。

信濃川と中ノ口川

弥彦山と信濃川
長岡市真野代新田(旧中之島町)より弥彦山と信濃川。
大永年間に信濃川が刈谷田川まで分水された地点と思われます。このあたりから右側に分水されました。
信濃川分流
三条市尾崎(旧南蒲原郡栄町)より燕市道金の信濃川分流地点。左が中ノ口川・水門橋、右が信濃川本流・蒲原大橋。
旧信濃川本流地帯
燕市八王寺(左)と三条市上須頃(右)との市境より。燕市史によれば、信濃川の河道の変遷時に、
本流がこの地帯を流れていた事がわかりました。堤防の形跡が右側にあります。
正面の堤防の向うの中ノ口川方向に向って流れていました。
直江川
燕市小高より中ノ口川(直江川)。直江工事後、こちらが信濃川本流でした。
正面には、北陸自動車道と上越新幹線および佐渡(さわたり)橋。
三条市大島から弥彦山
三条市大島地区から見た弥彦山。手前が中ノ口川(直江川)で、万治工事の際に流入していた川が塞がれた一帯です。
新飯田橋
中ノ口川・新飯田橋付近。新飯田橋の奥手より左方向に昔、福田川がありました。中ノ口川は右方向の西蒲区六分方面へと流れています。 1896年(明治29年)7月22日に旧分水町横田で起こった信濃川の洪水横田切れでは、
蒲原平野は甚大な水害となりました。その中、平野部で被害のなかった三条市須頃と旧白根市新飯田は、
比較的標高のある地域と言え、直江兼続の測量技術の現れだったのかも知れません。
信濃川合流
三条市井戸場より加茂市鵜ノ森の信濃川。左側から昔、福田川が合流していました。
信濃川が最も大きく蛇行し、S字カーブを描く地点です。
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