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直江兼続と白根大凧合戦 熱戦/白根大凧合戦 直江兼続と樋口兼光 上杉景勝と直江兼続の生誕地・南魚沼上田庄 上杉謙信と栃尾城 直江兼続と直江石堤 直江兼続とお船の墓所 米沢・林泉寺 |
このページの内容 白根大凧合戦の由来 世界一の大凧 凧の起源 直江兼続の年表と業績 直江兼続の信濃川治水事業 信濃川は何故東方向へ 直江兼続の直江状 |
直江兼続と白根大凧合戦新潟県旧白根市(現在は新潟市)の白根大凧合戦は毎年6月第一週(木)〜(月)の5日間行われます。大凧は、畳の大きさで24畳(縦7m 横5m 和紙324枚張り 重さ50kg)の物が揚がります。 白根地区と味方地区で中ノ口川を挟み、東西に分かれて凧を絡ませ、 綱引きの要領で綱を引き、綱が切れる最後まで勝負を競います。 しろね大凧と歴史の館には、現物の大凧が展示されています。 新潟市南区のイメージカラーは、ブリーズブルー。青空とそよ風のイメージのようです。 味方地区の堤防脇公園には、大凧合戦写真や凧音頭の流れる石碑があります。 2010年と2009年の白根大凧合戦は熱戦/白根大凧合戦へどうぞ。 白根大凧合戦が撮影された映画『トラック野郎 度胸一番星』(1977年)、『男はつらいよ 旅と女と寅次郎』(1983年) それぞれ映像クリックで映画ロケ地紹介です。 白根大凧合戦の由来中ノ口川は昔、直江川と呼ばれており、細く浅い川で、大雨の度に氾濫し洪水を繰り返していました。大河津分水ができる前、江戸時代中期に直江川の改修工事が行われ、旧味方村の笹川様(現在の笹川邸)の先人が、 財産を投資して民による人力掘削により川底を低く、川幅を広くして造られました。 この工事は1737年(元文2年)に完了し、旧白根村の中を川が流れ、東西に分断されました。 この由来により、水利権は旧西蒲原地区にあり、白根郷土地改良区は信濃川に水利権を有する事になったようです。 この白根大凧合戦は、その工事の完成を祝って、1737年(元文2年)に東白根(旧白根町)の人が、 領主の新発田藩からほうびとして凧をもらい受け、白根側から揚げた凧が味方白根の家に落ち、田畑を荒らした事により、 怒った味方白根側も凧を揚げ、仕返しした事に始まったと伝えられています。 これ以降、約270年もの間、夏の風物詩として続く伝統行事となり、白根の人々の活気あふれるお祭りとなっています。 一説によれば、盛土をした堤防をしめ固める為に、大勢の民で大凧行事をしたとも推測されるようです。 また6月に行われる白根大凧合戦は、現在の5月の節句(旧暦は6月)にあたり、節句とも呼ばれています。
昭和47年5月25日発行の広報しろねによれば、直江工事(下段に記載)後の頃の起源説があるようです。 そうなると300年以上前とも350年以上前とも推測されますが、その記録は無いとの記述がされています。
また西白根が白根村から西白根村の独立した村名になったのは、 1649年(慶安2年)の頃のようです。 左の写真は、数年前、“JA白根市”の切花部会で参加した写真。 大凧の大きさが人の背高の3倍ほどあります。 この大凧は、揚げた際に対岸に向って凧が傾くように、引き綱に巻きつける大凧の“はなお”の長さを巧みに調節してあります。 互いに対岸に向って大凧を揚げ、Xの形で絡み合いに挑み、絡んだ大凧同士で綱引きをします。綱の切れた方が負けです。 ◆ 【直江川 (中ノ口川)】は、戦国時代に、与板(現在の長岡市与板)城主だった直江兼続(なおえかねつぐ)が、 蒲原平野の信濃川の治水事業を計画し、現在の燕市から新潟市西区大野まで地元農民や町民により掘削された総延長約32キロの人工川です。 平成21年のNHK大河ドラマ「天地人」に登場する直江兼続は、白根に大変ゆかりのある方です。演ずるは、俳優妻夫木聡さんです。 第1回の放送は、平成21年1月4日(日)です。 |
世界一の大凧1980年(昭和55年)3月20日、フジテレビの番組「チャレンジ・ザ・ギネス80」の依頼で、当時1975年にアメリカのカリフォルニアであげた245.2uの洋凧に挑戦しようと、266u(161畳分)の大凧を 2ヶ月余りをかけて製作し、白根の凧人300人が宅地造成中(現在の白根大通小学校付近)の 白根の大通地区に集まり挑戦しました。 大凧を揚げる際には、大凧を起こすためにクレーンを用意し、早春の風に乗って大凧を空高く揚げました。 このニュースはいち早く世界の凧界に伝わり、みごと新記録樹立となり、 ギネスブックに登録され、ギネス認定証をもらい、世界一を誇る白根大凧となりました。 1980年(昭和55年)4月2日にオンエアされました。 大凧製作時には、入る体育館などがないため、大凧を4分割して作り上げ、彩色の際にも同じものを使い、 当日現地に運び白根独特の凧師の技術で組み上げられ、大凧を立たせる技術も白根の凧師の技の見せどころだったとの事です。 また、この撮影が終了した時点で、この大凧は天国へ葬られたとの事です。当時のギネスの認定証です。 残念ながらこの翌年1981年には、オランダのパラフォイル凧が553uの大凧を揚げ、記録は破られてしまいました。 ◆ 「現在では、ニュージーランドのピーターリンという大凧が600畳(タテ25m×ヨコ40m)の大きさで世界一です。 アメリカとクエートと日本に同じ物があります。メーカーは大凧挑戦は止めようと、同じ物を作りました。 ちょうどふとんを浮かべたような形で揚がります。吹流しのようでもあります。」 (談:白根大凧の遠藤さん) 凧の起源凧の起源にはいろいろ諸説がありますが、しろね大凧と歴史の館によれば、 日本で凧の記録が登場するのは、934年(承平4年)に出された「倭(和)名類聚抄」(わみょうるいじゅしょう)の中で、 紙老鴟(しろうし)という漢名で凧を解説しています。直江兼続(1560〜1619)の年表と業績
★「にしきおり」(後の越後ちぢみ)の生産増加と技術向上 ★内山和紙の販路拡大とこうぞ・みつまたの栽培奨励 ★信濃川堤防の構築 ★刈羽(現在の柏崎市)鯖石川上流部の藤井堰造り ★西川の掘削 ★ 直江川(後の中ノ口川)と福田川の掘削 ■米沢城主時代の主な業績 ★直江石堤の構築 ★農地検地と開墾増産や滋養強壮の「うこぎ」の栽培奨励 ★宿駅伝馬の制を確立、武家町・寺町・町人町の整備 《参考文献 千野金太郎先生著:「直江山城守兼続」(非売品)》 《参考年表 WebGuide阿賀野 西暦と和暦の対応表》 |
直江兼続の信濃川治水事業
蒲原平野を流れる信濃川の治水事業の歴史は、
「新潟平野の生いたち」信濃川本流は何処 |
当時の戦国大名はことのほか河川土木に熱心で、武田信玄などは信玄堤と呼ばれる独特な治水堤防を発明し、
農民を直接統治しました。信玄堤は江戸時代になると霞堤とよばれ、富山県の神通川などには今でもみることができます。
上杉謙信がどのような意志を持っていたか定かではありませんが、越後平野のことに無頓着だったとは到底思えません。
信濃川治水事業は、あるいは謙信の長年の思いだったかもしれません。 あるいは、直江工事は景勝の命だったかもしれませんが、もともとは直江兼続が計画を発議し、景勝の許可を得たのかもしれません。 この頃の大名・城主は農民に近く、のちの江戸時代の支配者としての殿様とは違って、はるかに民百姓の状況をよく理解していた人達が多かったように思います。 地形学の立場からすると、戦国の真っ只中の時代の新潟平野は現在の巻から白根付近より新潟まではほとんど水浸しの湿原で、開発はままならなかったと考えられます。 信濃川は西川に、刈谷田川は大通川に、五十嵐川は中ノ口川に流れ、 現在の大河津ー三条から巻ー白根間は広大な三角州でした。それより上流は長岡までがこれまた広大な氾濫原で、直江工事はこの地形的境界を狙って計画・実施されています。 地形図を見るとこの場所に標高10mの等高線が現信濃川と平行に走っています。おそらく直江工事は位置的には最適の場所だったと思います。 ここは大永年間に三条城主山吉氏が信濃川を刈谷田川(下流は大通川)へ分水してしまったため、おそらく横田切れのような洪水が頻発していたことでしょう。 これを解消するために直江工事を行って、さらに五十嵐川(下流は中ノ口川)へ流すことを計画したのだろうと思います。 この際大河津から刈谷田川までの改修も行われています。 しかし、直江工事だけでは目的を果たせず、結局信濃川は加茂川まで延長せざるを得ず、それに伴って五十嵐川、中ノ口川も改修を余儀なくされています。 この結果、大河津ー三条間の信濃川右岸川のもともと氾濫原で低地・湿地だったところがいっそう排水が悪くなると言う事態ができ、中之島から栄町にかけて輪中ができてしまいました。 |
一、第三に道作りは、舟、橋を作れと(景勝が)申しつけ、往還のわずらいがない様に、国を相抱えこの役を全うしておる事で、このような事であります。 越後の国においても舟、橋、道を作ってきました。しからば、(まだまだこの工事の)残りがはしはしにあってもこれが有る事であります。 淵底は(=詳細は)堀監物(堀直政)が知っているはずであります。(内府様の堀直政も知っているではありませんか。)・・・ (景勝が)当国(会津)へ移ってこられ、(堀直政は)新しい仕事もこれなき事にあります。本国(越後)の久太郎(堀秀治)を踏みつぶすのに、何の手間が入りましょうか。 道作るまでには行き足らず。(道作るまでもないでしょう。)・・・(中略)・・・堀直政ばかりが道作りに恐れていると色々の儀を申しております。 |
『羽後成就院古文書写』 「瑠璃山長福寺は寺領廿五石中、越後加茂と云う所にこの寺号あり、談義所と名づく」 (談義所とは、仏法教典について議論するところ 羽後は会津) 千野金太郎先生著:「直江山城守兼続」より |
わざわざ飛札を以て申達し候、然れば景勝卿上洛遅滞について、内府様御不審候儀少なからず候、上方雑説穏便これなく候に付、伊奈図書(伊奈昭綱)・
河村長門差下され候、此段使者口上申達すべく候へども、多年申通じ候上は、愚僧笑止に存じ此の如くに候、香指原新地(神指原新城)取立てられ、
越後津川口の道橋作られるの段、何篇然るべからず候、中納言殿分別相違候とも、貴殿御異見油断に存じ候、内府様御不審拠んどころなきに存じ候こと。 (中略)景勝の起請文のこと、景勝の律儀なことは内府も存じているから、弁明さえあれば嫌疑がはれること、堀監物が告発しているから、 これに対する陳謝が必要なこと、増田長盛・大谷吉継が万事仲介するであろうこと、朝鮮の再征をしなければならぬかも知れぬ、などのことがある。 一、当春北国肥前守利長異儀の処、内府公順路思召しなされて、別儀なく思いのまま静謐仕り候、これみな前車の誡めにて候間、其元かねて御覚悟尤もとなすべきかのこと。 一、千万(の弁解)も入らず中納言殿御上洛遅延候に付此の如くに候間、一刻も早く御上洛候様、貴殿あい計られるべきこと。 一、上方に於て専ら取沙汰のことは、会津にて武具集められ候と、道橋作られ候のことにて候。 一、愚僧と貴殿数か年等閑なく申通じ候へば、何事も笑止に存じ此の如く候、その地の存亡、上杉の興廃の境に候条、思案を廻らされるの外、他事あるまじく候、 万端使者に申含め口上候、頓首 豊光寺 卯月朔日 承兌 直江山城守殿 御宿所 《渡辺三省著:『直江兼続とその時代』(昭和55年10月)より・・(上杉年譜)》 |
今月1日の尊書、昨13日に着きまして、つぶさに拝見いたしましたこと多き幸せにあります。 ◆ 一、当国の儀、そこ(大坂京都)において、色々と雑説(噂)がお有りと内府様のご不審がある事は、もっともやむを得ない事でございます。 なぜなら京都伏見と大坂の間でさえ、色々と雑説(噂)がやむ事はありません。ましてや遠国の景勝、若輩と言い、雑説(噂)があるのでしょう。苦しい事にはありません。 尊意をおだやかにされ、つれづれと聞いていただきたく存じます。 ◆ 一、景勝が上洛を延ばした事はどこが不審と申されておるのでしょう。おととし国替えして、昨年9月に国へ戻り、今年正月に上洛せよと申されましたが、 いつの間に仕置きをしたらいいのでしょうか。就中(なかんずく=とりわけ)、当国は雪国にて、10月より3月までは何事もできない状態にあります。 当国の案内者にお尋ねしていただければわかる事でございます。正月中から雑緒(噂)を企て上洛延引の故にこれ有りと、何者かが、 景勝の逆心有りとつぶさに思い込み申した事なのでしょう。 ◆ 一、景勝において別心なきは、誓書をもって申し上げられとの事ですが、おととし以来、数通の起請文が反古になり、重ねて申し入れする事はいらないでしょう。 (これ以上申し入れしても無駄な事でしょう) ◆ 一、太閣様(豊臣秀吉)以来、景勝が律儀な仁(人)と思われていて、今も別儀はありません。世に言う朝変暮化(ちょうへんぼか)とは相違います。 ◆ 一、景勝の心中は、毛頭にも別心などはなく、ざんにん(事実を偽り申す者)の申した事をご糺明(きゅうめい=問いただす事)なく逆心と思われた事は、 是非(善悪を論ずる事)には及びません。兼ねてまた、等閑(とうかん=いいかげん)でない(=親しき)験(しるし)には、ざん者(事実を偽り申す者)が引き合いされ、 是非ともお尋ねしていただきたい。左様(さよう)なこれなき事は、内府様の御表裏があるのだと存じます。 ◆ 一、北国肥前殿(前田利長)がお考えのままに、おおせられた理由は、御威光(いこう=恐るべき勢い)浅からず事に存じます。 ◆ 一、増右(増田長盛)、大刑部少(大谷吉継)御出頭(しゅっとう=出向く)の理由は、珍重であります。自然に用所の儀は、申し越しされるべきであります。 榊式太(榊原康政)は、景勝の表向きの執頭(取次ぎ役)にございます。しかれば景勝の逆心が歴然ならば一応の意見に及びてこそ、士(さむらい)の節目、 又は内府様の御為にてなされる所、左様(さよう)の分別こそ相届かない事で、ざんにん(事実を偽り申す者)の堀監物(堀直政)の奏者(=伝達者)をされ、 種々の才覚(=くめん)をもって妨げ申さざる儀、これ分別無きであり、忠臣か伝人か、御分別次第で、重ねて頼むべき事であります。 ◆ 一、雑説(噂)の第一に、上洛延引の御改めを申したのは、右の申し定めたごときに御使者にも委ねて申し上げます。 ◆ 一、第二に、武具を集めています事、上方武士は今焼茶碗や炭取りふくべ、などなど人たらし道具をご所持され、田舎武士は鉄砲、鑓(やり)弓矢、の道具を支度申しております。 この事は、その国々の風習と思われる事で、ご不審があったのでしょう。世に言う、「これなき支度不似合いの道具を用い」と言われるように、 景勝は不肖の(おろかな)分際(身分)であり、何程の事がこれにあるのでしょうか。天下に不似合いのご沙汰(知らせ・たより)と存じます。 ◆ 一、第三に道作りは、舟、橋を作れと(景勝が)申しつけ、往還のわずらいがない様に、国を相抱えこの役を全うしておる事で、このような事であります。 越後の国においても舟、橋、道を作ってきました。しからば、(まだまだこの工事の)残りがはしはしにあってもこれが有る事であります。 淵底は(=詳細は)堀監物(堀直政)が知っているはずであります。(景勝が)当国(会津)へ移ってこられ、(堀直政は)新しい仕事もこれなき事にあります。 本国(越後)の久太郎(堀秀治)を踏みつぶすのに、何の手間が入りましょうか。道作るまでには行き足らず。(道作るまでもないでしょう。) 景勝の領分の越後の儀は申すに及ばず、上野・下野・岩城・相馬は(伊達)政宗の領、最上・由利・仙北へ相続き、いずれも道作り同前であります。 自余の衆は何とも申しておりませんが、堀監物(堀直政)ばかりが、道作りに恐れていると、色々の儀を申しております。 よくよく弓矢を知らない無分別者と思われるべきです。景勝が天下に対して、逆心の企てこれありは、諸境目・堀切りを塞ぎ、防戦の支度こその仕事になりましょう。 十方へ道を作りつけて、逆心の上、自然に人数を向けさせても、一方の防戦でさえまかりなるものの、どうして十方を防戦できるものになりましょうか。 たとえ他国出兵に取られても、一方へこそ景勝は相当の出勢兵力がありますが、いかがして十方を防戦まかりなりましょう。 なかなか是非にとは及ばないうつけ者(ぼんやり者)と存じます。景勝が領分の道・橋を作る事と申し付けた本体を、江戸より切々たる御使者にて、 白川口(白河口)の本体をご見聞なされるべきであります。その他、奥筋へも御使者を下されて、所々の境目などの本体を見ていただければ、 御合点いただける事にございます。 ◆ 一、御等閑(とうかん=いいかげん)でない間にても(=親しき間柄にても)、虚言(噂)にまかりなる儀は、自他のためにおおせられた理由に存じますが、 高麗降参と申されないのならば、来年御人数をお使い遊ばされください。おおせられの通りか、虚説(噂)が誠か、一笑一笑。 ◆ 一、景勝が今年3月は謙信の追善(供養)に相あたります。左様(さよう)の隙(すき=ひま)を明け、夏中には御見舞いのため上洛できる仕事内容であるゆえ、 人数武具をもって国々の仕置のために、国中にあるものを急いで相整える様にと用意申されたところに、増右(増田長盛)、大刑部少輔(大谷吉継)より、 使者(伊奈昭綱・河村長門守)に申し越された事は、景勝の逆心が穏便(おんびん=おだやか)ないとの事と、別心なきにおいては上洛がもっともなゆえ、 内府様ご内證(ないしょう=秘密)の事にて、とても御等閑(とうかん=いいかげん)でない者(=親しき者)のざんにん(事実を偽り申す者)が申しなした有様に、 急いでご糺明(きゅうめい=問いただす事)されてこそ、ご懇切(こんせつ=非常にねんごろな)の験(しるし)になると、意趣(いしゅ=考え)なく逆心と申しふれた事は、 別心なき者、上洛したまえなどと乳呑子(ちのみご)のあひしらい(=あやすように)言われた事は、是非(善悪を論ずる事)に及びません。 昨日まで逆心企てた者も、その事がはずれてしまえば、知らぬ顔して上洛してきて、あるいは縁辺(縁者)、あるいは新知行をとり、恥不足をも顧みず(かえりみず)、 人の交わりをなすのでございます。当世風は、景勝の身の上には不相応にあります。心中が別儀なく、逆心は天下にそれを隠す事がない者(=景勝)が、 むざと(惜しげもなく)上洛は、累代律儀の弓矢の覚えまで失います。ざんにん(事実を偽り申す者)が引き合いされ、ご糺明(きゅうめい=問いただす事)がなければ、 上洛はまかりなりません。右の趣、景勝理か非か。尊慮に過ぐべからず。(尊慮に過ぎずおわかりになりましょう。)就中(なかんずく=とりわけ)、 景勝家中の藤田能登守と申す者が、去年七月半ば(注★1)に当国を引き取り江戸へ移りました。それより上洛した事は、定めて(必ず)万事知り申します。 景勝の取り違いか、内府様の御表裏か。世に言うご沙汰(知らせ・たより)次第にあります。 ◆ 解説:1600年の謙信の追善(供養)は23年忌にあたります。 注★1:藤田能登守と申す者「七月半」は「去月半」としてある直江状もあるとの事で、 「去月半」ならば3月半ばとなります。 ◆ 一、千言万句もいりません。景勝の毛頭にも別心はありません。上洛の儀はできそうもない様にて、御仕懸の事はこれには及びません。 この上も、内府様の御分別次第に上洛できる事であります。たとえこのまま在国申し付けられて遠国にいようなら、太閣様(豊臣秀吉)の御署目に相そむき、 数通の起請文が反古になり、御幼少の(豊臣)秀頼様を見放し申す事となり、内府様へ首尾なく仕掛け、このほうより手出しして天下の主になったとしても、 悪人の名をのがれられず、末代の恥辱(ちじょく=はじ)になります。ここのところ、遠慮なしに何物を仕掛けるでしょうか?御安心なされてください。 ただし、ざんにん(事実を偽り申す者)の申した事、実儀に思われて、御改めなきは、不儀の御拘者(扱い)は是非(善悪を論ずる事)に及びません。誓紙堅約もいりません。 ◆ 一、そこのところ、景勝の逆心と申している事、隣国(越後)においても、会津働とふれまわり、城に人数を入れ、兵糧までの支度、あるいは境目に人質を取り、 所々の口止めを仕掛け、さまざま雑説(噂)を言っている事は、無分別者の仕事にあります。聞きも入らない事であります。 ◆ 一、うちうちに内府様へのご使者をもって御見廻りを申し述べようと思っていますが、隣国(越後)よりざんにん(事実を偽り申す者)が詰め打って、色々と申しており、 家中より藤田能登守が引き切り、逆心が歴然と思われている事、御音信など申し上げようとの者、表裏者の第一とご沙汰(知らせ)があろうし、 まずは、ご糺明(きゅうめい=問いただす事)のないうちは、申し上げれません。全く疎意これなき通り、折節(せっかく)のお取り成し、 我等においても畏み入り(かしこみ入り=恐れ入り)ます。 ◆ 一、何事も遠国ながら推量された事にあり、あるように言われた事であります。当世間様に余情がましき事にあり、自然に事実もうその様になってしまいます。 申すまでも無く思えども、御目にかけられた儀と言い、天下の黒白を御存知の儀にあり、言われている儀は実儀になりましょう。御心安きまま、惜しげもなく書を進上いたします。 慮外少なからず、愚意を申し述べ、尊意を得るべきため、この憚り(はばかり=恐れ)をも顧みず(かえりみず)。侍者奏達 恐惺敬白 直江山城守 慶長五年 卯月十四日 兼続 豊光寺 侍者御中 |
直江兼続とお船お船の父・直江景綱とお六(兼続)の母・お藤は兄妹(姉弟)の関係で、お船とお六(兼続)は<いとこ>の関係です。 長岡市与板歴史民俗資料館の直江像 お船の生誕地・当時の本与板城の直江邸は、現在の光西寺にあり お六(兼続)は6人兄妹(男3人・女3人)であり、次男・与七は後の天神山城主大国実頼(おおくにさねより)。 三男・与八こと樋口秀兼は樋口家を継ぐ。長女のきたは、須田城主・須田満親の長男・須田満胤の妻。 次女は、岩船郡平林(旧神林村)城主・色部光長の妻に、三女は篠井泰信の妻。 直江景綱は1577年(天正5年)の69歳の時、病気でお亡くなりになりました。 お藤は1585年(天正13年)にお亡くなりになり、既にお六(兼続)と与七(実頼)は坂戸を離れていました。 |
与板城与板城があった城山は、標高104mです。山頂までは400mほどで約10分。登山道入口でもらったパンフレットによれば「所望事信一字」とは、「望む所の事は信の一字」と読むとの事。慶長2年2月6日 直江山城守 説明文には、信濃川流路についても刻まれています。与板城址からの眺め 天神山城天神山城跡は、現在の新潟市西蒲区岩室温泉にあり、登山道入口は2箇所あります。登山道入口から山頂の本丸跡までは15分程、標高は234m、かなり急斜面の階段部分もあります。 天神山本丸跡から岩室温泉と蒲原平野。 須田城跡1598年まで須田城があったとされる地は加茂市後須田の地蔵院。推定350年の地蔵院の黒松。 長尾景虎(景虎は幼名、後の輝虎、上杉謙信)の父は長尾為景、 母は青岩院<栃尾栖吉(現在の長岡市栖吉)長尾家>の出身で、母は安産祈願で1530年(享禄3年)に加茂市青海神社に参拝し、 春日山に帰る途中の直江津で産気づき景虎が生まれた、と言う記述が加茂市青海神社の記録にあると言う事です。 上杉謙信は1578年(天正6年)に春日山城中にて脳溢血で死亡(享年49歳)し、 長尾景勝(上杉景勝)が後継となります。 長尾景勝(上杉景勝)の父は長尾政景、母は仙洞院(綾姫)で、上杉謙信の姉。 吉江城上杉謙信に仕えた戦国武将吉江宗信は、西蒲原郡吉江村(現在の新潟市南区吉江)の吉江城主でした。吉江城があったと推測される地は、新潟市南区吉江の高念寺付近。 味方地区や白根地区などを統治していたと言われています。白根の名がついた「城の根」に因るとか? 天正10年(1582年)魚津城にて吉江宗信自刀す。 天正12年(1584年)藤田能登守(吉江城主)、重臣根岸与衛門他十余人をして小吉郷を開発せんとする。 藤田能登守信吉は、1559年(永禄2年)天神山(秩父郡長瀞町)城主だった藤田重利の次男として生まれ、 武田家滅亡後に上杉家の家臣として、上野国の沼田(現在の群馬県沼田市)城代となる。新発田重家の乱の際、 上杉景勝の命により兼続らと共に新発田城を落城させた一人です。兼続のひとつ年上。 大面城上杉景勝に仕えた上田衆の泉沢久秀は、後に南蒲原郡大面村(現在の三条市大面(おおも))の大面城の城番になったとの事。 旧南蒲原郡栄町小滝地区に大面城跡登山道入口があります。 登山道入口手前500mのところ(舗装道路の終点)に3台駐車できる駐車場があります。 護摩堂山城上杉景勝に仕えた上田衆の甘糟景継は、 1577年(天正5年)に謙信の命により護摩堂山(南蒲原郡田上町)城主となり、1583年(天正11年)に景勝の命により五泉城主となる。南蒲原郡田上町にある護摩堂山は標高274mです。ふもとは湯田上温泉で、登山口には50台ほどの駐車場があります。 山頂まで約1.7kmで、40分程で登れます。 山頂付近には、あじさい園があり 6月の時期には彩りがあざやかです。 黒滝城上杉景勝に仕えた上田衆の深沢弥七郎は、1593年(文禄元年)に西蒲原郡弥彦村の黒滝城の後継となり山岸尚家を名乗った。 黒滝城跡は黒滝森林公園となっている。 木場城宮のもり木場城公園木場城は新発田重家の乱の際の最前線基地となった。 |
お船の初婚相手の直江信綱(長尾景孝)は、もとは上野国(現在の群馬県)の長尾家の出身。 越後国に逃れてきて上杉家の家臣として仕えたとか。 堀直政は、1598年(慶長3年)上杉家の会津移封に伴い、豊臣秀吉の命により越後国を支配した。 堀直政と子の堀直清は三条城(1610慶長15年にいったん廃城)に、 越後国主の堀秀治は春日山城(1607慶長12年廃城)に、 堀直政の三男堀直寄は坂戸山城(1610慶長15年に廃城)にそれぞれ城主となった。 |
お六と桂姫大河ドラマ「天地人」に登場する上杉景勝の妹は華姫です。実は景勝には二人の妹がおり、もう一人の妹がいました。 六日町のお六甚句にある桂姫です。 小千谷市真人地区には桂姫にまつわる祠が祀られていると言う。 ◆ 《千野金太郎先生著:「直江山城守兼続」より。ただしカッコは追加。》 ◆ <・・景勝には桂姫という妹があった。桂姫は大月(現在の南魚沼市)の“寺ヶ鼻”というところにある母の館で生活しておられた。 父・政景のご機嫌伺いに坂戸(現在の南魚沼市)へ訪れる事がたびたびあった。小姓お六(兼続)のりりしい風貌と智性あふれるものごしを目にとめた桂姫は、 いつしかお六(兼続)を恋慕うようになった。お六(兼続)もまた姫のあでやかな気品に満ちた立ちふるまいに心をひかれ、たのもしく思っていた。 景勝はこうした二人をあたたかく見守っていた。しかしこうした二人のお付き合いはいつしか城中の評判となり、二人の間をねたむ者さえ出てくるようになった。 お六(兼続)は自分の事でお家中が騒がしくなるのを恐れて、景勝に自分の心情を申し述べ、一時小姓を辞め家に帰り百姓をする事になった。天正3年お六(兼続)が16歳の時であった。 “お館の乱”も終わり、景勝が春日山城主になった頃、天正9年に与板城主直江信綱が急死した。景勝はお六こと樋口兼続に直江家を継ぐように命じた。 お六こと兼続が坂戸を去ると、桂姫はやるせない恋情傷心の身を坂戸から遠く離れた真人村北山(現在の小千谷市真人)の高原台地に癒やす事になった。 しかし不幸にも病がちな姫は若くして亡くなった。屋敷跡には祠が祀られている。集落の名は姫の名にあやかり、“桂”という。集落の人はすべて樋口姓である。・・> ◆ 千野先生のお話によれば、この北山集落の樋口姓は、木曽義仲の四天王の一人である樋口次郎兼光がこの地に来住し、 その子孫が樋口兼続(直江兼続)の父・樋口惣右衛門兼豊にあたると伝わっているとの事で、北山集落は兼続の第2の故郷なのかも知れません。 詳しくは直江兼続と樋口兼光へどうぞ。 |
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信濃川と中ノ口川長岡市真野代新田(旧中之島町)より弥彦山と信濃川。 大永年間に信濃川が刈谷田川まで分水された地点と思われます。このあたりから右側に分水されました。 三条市尾崎(旧南蒲原郡栄町)より燕市道金の信濃川分流地点。左が中ノ口川・水門橋、右が信濃川本流・蒲原大橋。 燕市八王寺(左)と三条市上須頃(右)との市境より。燕市史によれば、信濃川の河道の変遷時に、 本流がこの地帯を流れていた事がわかりました。堤防の形跡が右側にあります。 正面の堤防の向うの中ノ口川方向に向って流れていました。 燕市小高より中ノ口川(直江川)。直江工事後、こちらが信濃川本流でした。 正面には、北陸自動車道と上越新幹線および佐渡(さわたり)橋。 三条市大島地区から見た弥彦山。手前が中ノ口川(直江川)で、万治工事の際に流入していた川が塞がれた一帯です。 中ノ口川・新飯田橋付近。新飯田橋の奥手より左方向に昔、福田川がありました。中ノ口川は右方向の西蒲区六分方面へと流れています。 1896年(明治29年)7月22日に旧分水町横田で起こった信濃川の洪水横田切れでは、 蒲原平野は甚大な水害となりました。その中、平野部で被害のなかった三条市須頃と旧白根市新飯田は、 比較的標高のある地域と言え、直江兼続の測量技術の現れだったのかも知れません。 三条市井戸場より加茂市鵜ノ森の信濃川。左側から昔、福田川が合流していました。 信濃川が最も大きく蛇行し、S字カーブを描く地点です。 |