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直江兼続と白根大凧合戦  熱戦/白根大凧合戦

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直江兼続と樋口兼光

新潟県小千谷市真人(まっと)の北山集落は、直江兼続の先祖の地として伝承されています。
この北山集落の過半数は樋口姓であり、平安時代に、木曽義仲の四天王の一人である樋口次郎兼光
この地に来住し、その子孫が樋口兼続(直江兼続)の父・樋口惣右衛門兼豊にあたると伝わっているとの事です。
樋口次郎兼光から数えること、樋口惣右衛門兼豊が16代目にあたり、
樋口与六(直江兼続)の弟・樋口与八(樋口秀兼)が17代目にあたるそうです。
北山集落北山神社
県道小千谷大沢線にある北山地区は、小千谷市と長岡市と十日町市の市境に位置し、四方は山で囲まれています。
小千谷市真人(まっと)にある真人住民センターから峠を越え、4キロ余り離れた北山地区を訪ねました。

北山小学校があった昭和42年頃には、北山・桂(現在は桂平)・孫四郎の3つの集落があり、
100戸余りのお宅があったそうですが、
現在では北山集落には10戸余り、桂集落には民家はなく、田とにしき鯉を育てる池が点在します。
また孫四郎集落は1戸のみとなったとの事です。

千野先生のお話によれば、冬季の降雪量は4mもあり、冬季には桂分校があった地で、上杉景勝の妹・桂姫については色々な話が残されていた地という事です。右上の写真は県道小千谷大沢線沿いにある北山神社です。
北山小学校
既に廃校になっている北山小学校の校門の校札が残っていました。(昭和56年3月31日閉校)
校門脇には、直江兼続祖先の地「北山」の解説が掲げられています。
直江兼続 先祖の地 北山集落
この樋口家は、樋口次郎兼光から数えること、14代目の樋口兼定の時に、
上田長尾家(上杉景勝の祖先)に仕えたそうです。
樋口惣右衛門兼豊が、上田長尾家の長尾政景(上杉景勝の父)に仕えていた事は、
天地人でも知られるようになりました。

樋口氏系図

《渡辺三省著『直江兼続とその時代』(昭和55年10月出版)より》

中原兼遠

樋口次郎兼光(初代)
(父・兼遠が譲与した領地の名をとり樋口姓を名乗らせた)

光信(2代)

兼明(3代)

兼基(4代)

兼秀(5代)

兼信(6代)

兼安(7代)

兼林(8代)

兼季(9代)

兼通(10代)

兼氏(11代)

兼富(12代)

兼詮(13代)

樋口兼定(14代)

樋口兼村(15代)

樋口惣右衛門兼豊(16代)

与六兼続、与七実頼、与八秀兼(17代)
詳しい系図については
扶桑家系研究所の樋口氏一族(直江兼続の系)
リンクへどうぞ。
なお、樋口姓の由来となっている地名については、
信州木曽町宮ノ越樋口谷(旧日義村)に由来するものと
信州伊那郡樋口村(現:辰野町樋口)に由来するものがある。
樋口次郎兼光の墓所は辰野町樋口と木曽町日義の徳音寺にある。

樋口姓分布地図データ

樋口姓の県別分布地図(密度)の最も高い、全国第1位は新潟県です。
特に密度の高い地域は、中魚沼郡・十日町市周辺です。

樋口氏の越後入り

《渡辺三省著『直江兼続とその時代』(昭和55年10月出版)より》

長城<・・木曽義仲が平家追討の挙兵したのは治承4年(1180年)で、 たちまち都から平家を追い落として勢力をふるったが、結局源頼朝と戦って敗死した。義仲の死後鎌倉幕府は木曽一帯を捜索して、 徹底的にその残党の一掃をはかったので、彼らは四散して越後魚沼郡や上野赤城山麓の山中深く隠れ、時のいたるのを待っていたのである。 樋口兼光の子孫もこのような状態にあったが、永享の乱(1438年)のとき上杉憲実に従って越後に攻め入り、功があったので魚沼郡北山の宛行を受けた(小千谷市史)。 そして次男を桂平に、家士を孫四郎や栗山に封じたのだという。
 北山(小千谷市真人)の現在の衆落の西方500mほどの山上に長城という地名がある。妻有谷と小国谷双方を望見しうる要衝である。空濠の跡がはっきり残っており、 近くの畑からは土器類の破片が多く出土している。ここは郡境であり、近くに4つの古塚が歴然と残っている。今一つの塚を発掘したとき太刀と炭が出土した。 長城の裾から豊富な清水が涌出しており、この水によって集落の開田がなされており、この水の支配者がすなわち北山の支配者なのである。 これが樋口氏の居館跡と伝承されている所である
(中魚沼郡誌)。
 北山は戸数六十戸の集落で、そのほとんどが樋口氏と進藤氏である。長城一帯の山林は樋口氏が所有している。 進藤氏もかつてこの村を支配した氏族であった。この村の字「宮ノ越」・「元屋敷」と呼ばれる進藤氏所有畑の地下約60糎(p)の部分から、一個の鰐口が出土した。 これには、「文明五才戌七月十三日」の銘がある。これを進藤氏の北山支配と直接結びつける証拠としては、なお不十分な面があるが、樋口氏が北山を領地していたのは、 永享から文明初年まで、約三五年間とするのは、無理のない推定のように思う。
 樋口氏が上田庄に移ってから天正年間までの約100年間のことは、ほとんど何の記録も残っていない。・・>
渡辺三省氏(1906年〜2011年)小千谷市生まれ
北山集落は、昭和55年当時は約60戸ほどあったようですが、平成21年8月現在では10数戸となっています。

『真人村立北山校 校歌』

一、西にそびゆる米山の
    いや永遠に動きなく
   立てるがごとに雄々しさに
    よろずをかけてたもてかし

二、樋口の次郎兼光が
    こもりしと聞く城あとに
   しげるときわの松のごと
    千代のみさおを守れかし
上杉景勝の妹・桂姫が、樋口兼続(直江兼続)が直江家を継ぐ事になり、傷心の身をこの地におき、この集落の名が桂と呼ばれ、 祠が祀られているという伝説の祠をたずねてみましたが、既に千野先生がお聞きになった昭和42年〜45年頃の桂集落の住民は在住せず、祠に出会う事はできませんでした。

お六と桂姫

大河ドラマ「天地人」に登場する上杉景勝の妹は華姫です。
実は景勝には二人の妹がおり、もう一人の妹がいました。
六日町のお六甚句にある桂姫です。
小千谷市真人地区には桂姫にまつわる祠が祀られていると言う。

《千野金太郎先生著:「直江山城守兼続」(平成20年11月 非売品)より。ただしカッコは追加》

順境と逆境〜直江山城守兼続〜<・・景勝には桂姫という妹があった。 桂姫は大月(現在の南魚沼市)の“寺ヶ鼻”というところにある母の館で生活しておられた。父・政景のご機嫌伺いに坂戸(現在の南魚沼市)へ訪れる事がたびたびあった。 小姓お六(兼続)のりりしい風貌と智性あふれるものごしを目にとめた桂姫は、いつしかお六(兼続)を恋慕うようになった。 お六(兼続)もまた姫のあでやかな気品に満ちた立ちふるまいに心をひかれ、たのもしく思っていた。景勝はこうした二人をあたたかく見守っていた。 しかしこうした二人のお付き合いはいつしか城中の評判となり、二人の間をねたむ者さえ出てくるようになった。 お六(兼続)は自分の事でお家中が騒がしくなるのを恐れて、景勝に自分の心情を申し述べ、一時小姓を辞め家に帰り百姓をする事になった。 天正3年お六(兼続)が16歳の時であった。“お館の乱”も終わり、景勝が春日山城主になった頃、天正9年に与板城主直江信綱が急死した。 景勝はお六こと樋口兼続に直江家を継ぐように命じた。お六こと兼続が坂戸を去ると、桂姫はやるせない恋情傷心の身を坂戸から遠く離れた真人村北山 (現在の小千谷市真人)の高原台地に癒やす事になった。しかし不幸にも病がちな姫は若くして亡くなった。屋敷跡には祠が祀られている。 集落の名は姫の名にあやかり、“桂”という。集落の人はすべて樋口姓である。・・>
千野金太郎先生(1920年2月10日生〜2013年3月8日逝去)加茂市
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