新潟白根の滝沢農園
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新潟県旧白根市新飯田

新潟(にいがた)の地名の由来

新潟が「にいがた」と呼ばれるようになった時代は、いつの頃なのでしょうか?
新潟市歴史博物館発行(平成20年9月20日)の「絵図が語るみなと新潟」によれば、
高野山清浄心院より「越後過去名簿」という史料から、
永正17年(1520年)に「新方(ニイカタ)」という文字のある過去帳が発見されたという事です。
「新」の字の読み方を「ニイ」と読んだ時代は、この頃からあったと思われます。
新潟の地名の由来は、信濃川と阿賀野川からできる潟湖(ラグーン)が現在の新潟市周辺に形成されていたところから
新しい潟の町と呼ばれるようになったようです。

白根(しろね)の地名の由来

白根が「しろね」と呼ばれるようになったのは、いつの頃なのでしょうか?
広報しろね(昭和49年9月1日発行)によれば、
『白根』という地名のいわれは、戦国時代の頃に名づけられたようであるという事です。その説としては、
@潟沼湿地帯ゆえに、その葦(あし)や菅(すげ)などの白き根に因る。
A上杉氏の強制入植政策に基づく、信州の移住者がふるさとの白根山にちなんだことに因る。
B吉江に城があり、城根に因る。
などのようであるとの事ですが、白蓮潟(しらはすがた)という名の潟があった事も忘れてはならない。
白蓮潟の根にあったところから川が流れていた時代がありました。そこが白根の中心地です。

新飯田(にいだ)の地名の由来

《参考文献 千野金太郎先生著:「新飯田中学校30周年記念誌(昭和51年1月)」》

@源義経が1174年に京都から奥州・平泉に渡る際の経路が、中尊寺に掲示されているそうですが、
その経路と地元の歴史などから、新潟・寺泊から内陸に入り、旧白根市新飯田を経由したものと推測されます。
滝沢農園・7代目の父の話では、新飯田村になる前は、鷲ヶ村と言ったそうです。
源義経は、滝沢農園の本家・團吉(だんきち)宅にお泊りになり、そのご飯が余りにも美味しかった事から、
この村の名前を新飯田村と命名されたと言う言い伝えもあります。新米の飯が採れる田んぼの村
源義経が寺泊から内陸を経由した理由については、当時信濃川が大雨の度に氾濫し、
蒲原平野は潟や沼などの湿地帯が多くあり、比較的地盤の安定している山沿いへと進路を取ったと推測されます。

A新飯田の地名が1645年(正保2年)の「越後絵図」に残されており、
戦国時代に上杉氏の新田開発により生まれた村であるという説もあります。
その後江戸時代になり新田開発が進み、この頃の新田と区別するために、
新田村と呼ばれていたものを信州飯田から来住した丸山庄屋にちなんで、飯の字を入れたという説があります。

B南北朝時代の頃に、戦いに敗れた南朝の臣・新田氏の一族がこの地に逃れ、
土着した事により、新田村となった説があります。
⇒新潟市南区茨曽根の永安寺付近に居住したのか?

C物部氏が越後の穀物を弥彦神社に献上した贄田(にえだ=にいだ)という説があります。

新飯田(にいだ)の歴史

《参考文献 千野金太郎先生著:「新飯田中学校30周年記念誌(昭和51年1月)」
「白根市史」「白根市史料集」「三条市史」「新発田藩史料 第一巻 藩主篇」「新潟市史」「加茂市史」など》
702年(大宝2)蒲原郡(後の中蒲原郡・西蒲原郡ほか)などが越中国から越後国に編入。
1058年(康平元)新飯田は桜井庄に属すと言う。
新飯田は、その昔「弥彦荘(しょう)」に属していたと言う。
1129年(大治4)弥彦社領は二位大納言藤原実房領を弥彦社に寄進。
弥彦神社は伊夜比古神を祭神とされている。
現在でも毎年、初穂米を献納する習わしが続いている。
1185年(文治元)新田氏族里見太郎義基が茨曽根に館を置く。
1331年(元弘元)新飯田村は小国氏から新田氏の領有となる。須田村は新田里見氏の領有となる。
茨曽根村は小国吉川氏領から新田里見氏領になる。
1335年(延元2)新飯田は、須田相模守義国及び大炊助義資の領有になる。(白根市史料集)
1558年(永禄元)上杉謙信の命により、須田相模守満親が須田村の領主になったという。(加茂市史)
1560年(永禄3)上杉謙信時代の領主は須田城・須田相模守満親
子供は長男・須田満胤(別名は光義)と次男・須田大炊之助長義。長男・須田満胤の妻は、直江兼続の妹・きた。
1582年(天正10)上杉景勝直江兼続に命じ、信濃川(中ノ口川=直江川と福田川)の掘削(直江工事)が始まる。
信濃川と中ノ口川の信濃川治水の歴史は、直江兼続と白根大凧合戦へどうぞ。
1592年(文禄元)上杉景勝時代の領主は須田城・須田大炊之助長義
1597年(慶長2)10月、中ノ口川出水で、小吉東島(現在の白根郷)流される。
1598年(慶長3)上杉景勝の会津移封に伴い、領主は新発田藩・溝口秀勝。須田城、吉江城廃城。
新飯田は新田村(新発田御領内高付帳)
1599年(慶長4)3月〜4月 溝口秀勝が信濃川鵜ノ森方面提の築堤工事を命ずる。(新潟市史・加茂市史)
1606年(慶長11)10月15日、中ノ口川出水で、小吉島(現在の白根郷)水冠。
1608年(慶長13)等運寺開かれる。
信州飯田より旧武田家家臣・丸山氏が一族と共に来住し豪族となったのはこの頃と推測される。
丸山氏は、江戸時代に新飯田村の庄屋職にあった。
1611年(慶長16)領主は新発田藩の沢海藩溝口伊豆守善勝(溝口秀勝の次男)
1616年(元和2)三条城主・市橋下総守が築城した裏館の三条城は、神子田長門守の城跡だった。
茨曽根城(当時は鵜原そ禰)・神子田長門守
⇒村上藩領の三条から新発田藩領の新飯田に城主が移動することは考えにくいので、村上藩領の茨曽根に茨曽根城があったと推測される。
1634年(寛永11)領主は新発田藩の沢海藩・溝口政勝(溝口伊豆守善勝の子)
1645年(正保2)正保越後絵図に新飯田の地名あり 上新田は「ウノ森新」
「中蒲原郡誌」によれば、1644年〜1648年に新飯田村となる。
新発田市立図書館所蔵の小吉三組絵図によれば、年代不詳ではあるが、燕市小高〜新飯田〜加茂市鵜ノ森に流れていた川(通称:直江川と福田川)は本川と記されており、三条市大島〜加茂市天神林〜加茂市鵜ノ森に流れていた川(現信濃川)は五十嵐川、現中ノ口川は中ノ口川と記されている。小吉三組絵図では、新井田村と記されている。(加茂市史より)
1655年〜1660年村上藩主・松平直矩が信濃川の主流河道を替えるべく、中ノ口川と福田川の掘削拡張工事を命ずる 中ノ口川第三次工事(万治工事)
1670年(寛文10)領主は新発田藩の沢海藩・溝口政胤(溝口政勝の子)
1670年(寛文10)5月14日 西蒲原を震源とする西蒲原地震(推定M6.8)
1683年(天和3)領主は新発田藩の沢海藩・溝口金十郎(溝口政胤の子)の代わりに溝口政親が1687年まで続く
1687年(貞享4)新飯田は幕府直轄領。領主は出雲崎代官・竹村惣左エ門
1688年(元禄元)沢海藩に出雲崎代官の出張所「沢海陣屋」を置く。初代・竹村惣左エ門
2代・設楽孫兵衛 3代・馬場新右エ門 4代・長谷川左兵衛 5代・鈴木八右エ門
1704年(宝永元)宝永年間に新飯田の中ノ口川堤防破堤(館集落丸山源太左ェ門脇)
1707年(宝永4)「沢海陣屋」廃止となり、「知行所」の名称となり、領主は沢海藩・小浜孫三郎行隆
その後 領主は沢海藩・小浜健次郎継隆
1778年(安永7)6月1日 新飯田の中ノ口川堤防破堤(館集落丸山源太左ェ門脇)
1779年(安永8)新飯田の中ノ口川堤防破堤
1782年(天明2)3月 新飯田の中ノ口川堤防破堤
1784年(天明4)3月5日〜7日 新飯田の中ノ口川堤防破堤(新飯田町うら)
1785年(天明5)新飯田の中ノ口川堤防破堤
1804年(文化元)領主は沢海藩・小浜長五郎
1807年(文化4)5月13日 新飯田の中ノ口川堤防破堤(中村集落青地蔵脇の太郎右エ門うら)
1808年(文化5)新飯田の中ノ口川堤防破堤
1828年(文政11)11月12日 三条地震(推定M6.9)
1830年(天保元)領主は沢海藩・小浜盛之助 小浜健治郎 幕末まで小浜氏7代続く
1836年(天保7)8月上旬 新飯田の中ノ口川堤防破堤(太郎左エ門うら)
1838年(天保9)天保国絵図では、「新飯田村の町方」と「新飯田村」と出ており、上新田は「鵜森新田」
1868年(慶応4)8月 越後府三條民政局 9月に明治元年となる
1869年(明治2)4月 越後府加茂民政局
1869年(明治2)10月 越後府水原県
1870年(明治3)10月 越後府新発田藩
1872年(明治5)7月 新潟県
1878年(明治11)郡区町村編成法施行により、旧蒲原郡が分割し中蒲原郡となる
1879年(明治12)国道一等(新潟〜塩沢までで、新飯田を通る路線)に指定される
1885年(明治18)明治国道8号線(起点:東京〜終点:新潟港で、新飯田町〜中ノ口川堤防を通る路線)昇格
1889年(明治22)4月1日 町村制施行により、新飯田町と新飯田村が合併して、中蒲原郡新飯田村となる
1952年(昭和27)国道8号線(起点:新潟〜終点:京都で、中ノ口川堤防〜新飯田町を通る路線)に改称される
1955年(昭和30)3月31日 白根町と合併して、中蒲原郡白根町新飯田となる
1959年(昭和34)6月1日 市制施行により、白根市新飯田となる
1964年(昭和39)3月末、新国道8号線(起点:新潟〜終点:京都)現在の路線(大野〜新飯田)開通
1964年(昭和39)6月16日 新潟地震(M7.5)
2004年(平成16)10月23日 中越地震(M6.8)
2005年(平成17)3月21日 新潟市と合併して、新潟市新飯田となる
2007年(平成19)4月1日 区制施行により、新潟市南区新飯田となる
2007年(平成19)7月16日 中越沖地震(M6.8)

新飯田(にいだ)丸山家の古文書

信州飯田より越後上杉に亡命した、旧武田家の家臣・丸山平内兵衛川中島の合戦で戦功をたて武田信玄から送られた感状を、江戸時代の新飯田村庄屋を務められた新飯田館集落の丸山家が所蔵されておられます。
詳しくは、白根新飯田村の丸山庄屋へどうぞ。

新飯田(にいだ)の石高

戦国時代の米はどれくらいの収量があったのだろう。父の話では、戦後(昭和20年頃)は約6俵=360kg/10a(1反)、
戦前(昭和15年頃)は、約5俵=300kg/10a(1反)だったと言う。
「三条市史」(右参照)によれば、慶長3年頃の新飯田の石高は、578石だったと記されている。
当時の面積は定かでないので、仮に当時の面積が現在の当地の水田面積程度あったとするならば、約70町程である。
(新田開発前の状況と果樹栽培が盛んになった現在で、開発前の谷地などの面積と現在の畑面積をほぼ同じと推測)

1石≒150kgであるので、578石≒86,700kg、およそ125kg/10a(1反)である。
現在の収量は、およそ520〜560kg/10a(1反)であるので、
戦国時代の収量は現在の4分の1程度しかなかったと思われます。
自家消費分を考慮しても庶民の口には入らなかった事でしょう。

白根市史によれば、1700年(元禄13年)の「越後国岩船 蒲原郡絵図」に新飯田村663石余と記述されています。
「記念誌」によれば、新飯田町庄屋を務められた千野家の古文書に、江戸時代の享保年間(1716年〜)の検地記録があったとの事です。
それによると、新飯田村面積=159町6反3畝1歩3尺、石高=518石2斗8升8合とあります。
面積は現在の村全体の農地面積にほぼ等しく、新田開発は終わっている事がうかがえます。
単純に計算してみると、518石≒77,700kg、およそ50kg/10a(1反)である。
もしかすると1732年(享保17年)享保の大飢饉の頃のものかも知れません。
あるいは洪水水害などによる影響だったのかも知れません。収量を算出するには、状況データ不足でした。

有願和尚と良寛様

有願様の円通庵有願の里公園
新潟県の有名人として知られる歴史上の人物、良寛様(りょうかんさま)は、新飯田の有願様(うがんさま)をよくお尋ねになり、交流されておられたそうです。有願様のお住まいは、現在でも円通庵(田面庵)(たのもあん)として保存されています。有願の里として公園も整備されました。良寛様は、文章を書く事より絵を描く事がお好きだったそうです。
文字を学ぶ為に、有願様を頼られて交流されたという事のようです。

有願(うがん)和尚(1738〜1808)

1738年(元文3年) 大島村代官島(現在の三条市代官島)生まれ
年代不明 中蒲原郡茨曽根村(現在の新潟市南区茨曽根)永安寺に入る
年代不明 諸国遍歴
年代不明 燕市秋葉町の万能寺 住職
1798年(寛政6年) 新飯田村 円通庵に入る
1808年(文化5年) 死亡

良寛和尚(1758〜1831)

1758年(宝暦8年) 生まれ
1769年(明和6年) 大森子陽門に入る
1775年(安永4年) 子陽門を去り尼瀬光照寺に入る
1791年(寛政3年) 諸国行脚
1796年(寛政8年) 各地の空庵を転住
1804年(文化元年) 五合庵(旧西蒲原郡分水町国上)に定住
1831年(天保2年)  死亡
《参考資料 山崎羅春著:「有願和尚と新飯田」(新飯田 有願会資料)》

新飯田(にいだ)の惣七

惣七の墓所 三遊亭円朝校閲 敵討義侠の惣七
滝沢農園の本家・滝沢團吉(だんきち)家には、越後の3大北越侠客(きょうかく)の一人惣七(そうしち)がいました。
惣七は1823年4月17日(文政6年)現在の新潟市白山浦の信濃川の船で寝中に襲われ命を落としました。
現在、滝沢農園で惣七のお墓の墓守をしています。

法名:釋妙剣刃芒莞位(しゃく みょう けん はん ぼう かん い)
お墓の高さは約2Mです。
義侠の惣七と言われて、強き悪を挫き、弱き善を救った物語があり、
三遊亭圓朝の「敵討義侠の惣七」なる講談書(明治32年出版)が当家にあります。
一門の7代目司馬龍生(別名三遊亭円新)が改定したものです。
既に紙がボロボロとなっており、全文を読むことは不可能になりました。
本編は新飯田の惣七へどうぞ。

青地蔵尊

青地蔵尊
新飯田の中村集落にある青地蔵尊は、江戸時代の明暦年間(1655年〜1657年)の頃に、
与四郎兵衛と言う方が青地蔵を祭ったと伝えられています。

現在は、滝沢農園のいとこに当る橋本果樹園が管理人をされており、
与四郎兵衛と言う方は、橋本果樹園の御先祖に当る方だと言う事です。
この青地蔵とは子供の地蔵様の事で、言い伝えでは、中ノ口川の上流から青地蔵が流れてきたところを、
与四郎兵衛が拾い上げ祭ったとされています。毎年4月21日が青地蔵祭りです。

須田城跡

地蔵院
1598年まで須田城があったとされる地は加茂市後須田の地蔵院。

須田満親は信州の豪族で、1553年に武田信玄によって侵略され、上杉謙信を頼って越後に逃れ1560年に須田城を築城した。
次男・長義が須田城を継いだ。1598年上杉家の会津移封で、
須田長義は梁川城主(福島県伊達郡梁川町)となる。

須田満親 1526年(大永6)〜1598年(慶長3)
須田満胤 生没年不明
須田長義 1579年(天正7)〜1615年(元和1)

神子田長門守

『越後古城揃(北越北国東国太平記の板書写し)』
(千野金太郎先生所有)
神子田長門守
『蒲原郡茨曽根之城主 神子田長門守 法花堂ノ城主
神子田八右衛門ノ子ナリ 栃尾町ノ城ニ暫ク住ス後
此城ヘ来リシ所 三條ノ城主 市橋下総守城替シ
三條ヘ移ル裏館ト云フ所ニ 長門守ノ城跡有リ』

法花堂は日蓮宗(法華宗)の三条本成寺城のこと。

歴代三条城主

《参考文献 「白根市史」 「三条市史」》

平安期 三条左衛門が築城
1185年(文治1) 池野大納言頼盛
1306年(徳治1) 池野丹波守成明
1356年(正平11) 山吉伊予守長守
応永年間 山吉久盛
1441年 山吉孫治郎景久
1446年(文安3) 長尾邦景
1511(永正8)〜 三条城は坂戸城・長尾房景の支配

1530?〜1544(天文13)? 長尾俊景
1544(天文13) 胎田常田常陸介景高
?〜?     山吉政久

1557(弘治3)〜1577(天正5) 山吉豊守
1577(天正5)〜1580(天正8) 神余親綱
1580(天正8)〜1597(慶長2) 甘粕長重
1598(慶長3)〜1608(慶長13) 堀直政
1608(慶長13)〜1610(慶長15) 堀直清・・・いったん廃城
1612(慶長17)〜1616(元和2) 松平重勝
1616(元和2)〜1620(元和6) 市橋長勝・・・新城築
1620(元和6) 市橋長政
1620(元和6)〜1651(慶安4) 稲垣重綱・・・廃城

歴代新発田藩主

1598(慶長3) 〜1610(慶長15) 溝口秀勝
1610(慶長15)〜1628(寛永5) 溝口宣勝
1628(寛永5)〜1672(寛文12) 溝口宣直
1672(寛文12)〜1706(宝永3) 溝口重雄
1706(宝永3)〜1719(享保3) 溝口重元
1719(享保3)〜1732(享保17) 溝口直治
1732(享保17)〜1761(宝暦11) 溝口直温
1761(宝暦11)〜1786(天明6) 溝口直養
1786(天明6)〜1802(享和2) 溝口直侯
1802(享和2)〜1838(天保9) 溝口直諒
1838(天保9)〜1867(慶応3) 溝口直溥
1867(慶応3)〜1871(明治4) 溝口直正・・・廃藩置県

歴代村上藩主

1598(慶長3)〜1604(慶長9) 村上頼勝
1604(慶長9)〜1618(元和4) 村上忠勝
1618(元和4)〜1636(寛永13) 堀直寄
1636(寛永13)〜1638(寛永15) 堀直次
1638(寛永15)〜1642(寛永19) 堀直定
1642(寛永19)〜1649(慶安2) 本多忠義
1649(慶安2)〜1667(寛文7) 松平直矩
1667(寛文7)〜1683(天和3) 榊原政倫
1683(天和3)〜1704(宝永1) 榊原政邦
1704(宝永1)〜1709(宝永6) 本多忠孝
1709(宝永6)〜1710(宝永7) 本多忠良
1710(宝永7)〜1717(享保2) 松平輝貞
1717(享保2)〜1720(享保5) 間部詮房
1720(享保5)       間部詮言
1720(享保5)〜1725(享保10) 内藤弌信
1725(享保10)       内藤信輝
1725(享保10)〜1761(宝暦11) 内藤信興
1761(宝暦11)〜1762(宝暦12) 内藤信旭
1762(宝暦12)〜1781(安永10) 内藤信凭
1781(安永10)〜1825(文政8) 内藤信敦
1825(文政8)〜1864(元治1) 内藤信親
1864(元治1)〜1868(慶応4) 内藤信民
1868(慶応4)〜1871(明治4) 内藤信美・・・廃藩置県

新発田城の歴史

《引用文献 「復元大系 日本の城」》

上杉景勝の会津移封に伴い、越前北庄の堀秀治が越後国主となり、溝口秀勝は越後蒲原郡に6万石を与えられ、堀氏の与力大名として新発田へ入封した。築城の候補地として新発田の他に五十公野、加茂が上げられたと言われるが、平地である新発田に決定したという。上杉景勝と戦い滅びた新発田重家の城跡を取り入れ、新たに城の構築を始めた。慶長7年(1602)頃に築城。1654年(承応3年)頃に本丸内の建物も全部完成したと見られる。1668年(寛文8年)と1719年(享保4年)に大火にあっており、明治5年に取り壊しになった。

戦国時代の石高

「三条市史 資料編第三巻 近世一」によれば、新発田御領内高付帳「新発田市史資料 第三巻」で、
蒲原郡内の石高が明記されています。

慶長3年(1598年4月2日)
新田村 五百七拾八石七斗八升 ⇒578石7斗8升
鵜原そ禰村 九百七拾壱石七斗三升 ⇒971石7斗3升
鵜ノ森村 弐百八拾三石六斗弐升 ⇒283石6斗2升

永安寺

永安寺
有願様が入った新潟市南区茨曽根の曹洞宗永安寺。
新飯田の円通庵との距離は、4km程。
里見義成
永安寺のすぐ近くに新田義貞祖里見義成居住の地というものを見かけました。

新田義貞(よしさだ)・・・正式名は源義貞で、1301年生〜1338年亡。
里見義成・・・1157年(保元2)生〜1234年(分暦2)亡。上野国(現在の高崎市)の武将。
ちなみに里見義成の祖父は、新田義重(よししげ)=源義重である。1202亡。
伝承によると、1185年(文治元年)に新田氏が茨曽根に館を置いたそうだ。と言う事は、
新田義重がその人物という事になるかと思えば、
白根市史料には新田太郎義基とあり、新田氏族里見太郎義基と思われます。
この地が居住した地ならば、鎌倉時代頃には、茨曽根や新飯田はかなり人々が住んでいたと思われます。
雪ん子滝沢直紀メール
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