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米百俵の三根山藩

小泉純一郎元首相が、政治改革に用いた「米百俵の精神」の「米百俵」は
新潟市西蒲区(旧巻町)にあった三根山藩から長岡藩にお見舞いに送られた「米百俵」だったのです。
旧巻町峰岡の国道460号線沿いの峰岡郵便局から新潟カントリー倶楽部方向へ
500m程のところに三根山藩址があります。

米百俵の精神とその由来

米百俵の精神は、明治の始めに戊辰戦争(1868年)で焼け野原となった長岡藩に
三根山藩(現:新潟市西蒲区峰岡)が見舞いとして百俵の米を送った事が始まりです。
三根山藩址三根山藩址
三根山藩址にある案内版によれば
当時、貧乏を極めていた長岡藩士は、その送られてきた米が分配されると思っていました。
しかし、長岡藩の大参事・小林虎三郎は「国が興るのも町が栄えるのも、ことごとく人にある。
食えないからこそ学校を建て、人物を養成するのだ。」として米を売却し、
その代金を国漢学校建設の資金につぎ込んだとの事です。
それにより長岡の近代教育の基礎が築かれ、後年、新生日本を背負う多くの人物が輩出される事になりました。
山本五十六がその代表的な人物です。
この「米百俵」の故事は、文豪・山本有三の同名の戯曲により広く知られるようになったそうです。

映画『総合艦隊司令長官 山本五十六』(2011年)にて、この「米百俵」の故事が引用されている。

三根山藩の米百俵

三根山藩址三根山藩址
案内版によれば
三根山藩は、長岡藩牧野家の創主・牧野忠成が、寛永11年(1634年)に四男・牧野定成に六千石を与え
分家として三根山藩を授かりました。この当時はまだ大名ではなく、第11代・牧野忠泰の時、
文久3年(1863年)にようやく大名となったとの事です。
三根山藩址
牧野忠泰は江戸で幕府の職務を携わっておりましたが、慶応3年(1867年)の大政奉還以降
国内騒乱の中で越後の情勢も不穏になり、慶応4年=明治元年(1868年)に三根山に帰任しました。
しかし三根山藩は、小藩であり、戊辰戦争において多額の軍費支出により藩財政が悪化しましたが、
何とかその苦難を乗り越えました。
この頃、本家長岡藩も幕末から明治維新にかけての相次ぐ動乱により、城も町も焼かれ困窮に陥っていました。
その本家の窮状に牧野忠泰は心を痛め、明治3年(1870年)4月〜5月の初めに、
君臣、領民一体となって、長岡藩を救うべく「米百俵」を送りました。
この「米百俵」は、決して富めるものからの施しではなく、自藩においても戦争による困難の中で苦しみながら
本家長岡藩への心情を託した義援米だったそうです。
なお、ここ峰岡の地名は、三根山から峰山になりましたが、丹後の峰山と紛らわしいと言う事から
明治3年に峰岡に変更されています。(正確には変更させられたようです)

米百俵を積み出した舟戸橋

舟戸橋
この舟戸橋の脇には当時、舟付場があり、近くには蔵屋敷があったそうです。
「米百俵」もここから積み出され、矢川・西川・信濃川を経由し、長岡に運搬されたという事です。

三根山神社

三根山神社
三根山藩の牧野家ゆかりの神社です。

米百俵の貨幣価値

明治3年の米1俵(60kg)の価格は、他サイトによれば、生産者米価は1.87円だったそうです。
明治3年の1円の貨幣価値は、現在の貨幣価値では約2万円だそうです。
よって明治3年の米1俵(60kg)は、現在の貨幣価値では約37,400円という事になり、
米百俵は約374万円に相当する価値と思われます。

参考までに、昭和5年生まれの母が言うには、明治の頃は、
60円もあれば大屋敷が1軒つくられる程の貨幣価値があったそうです。
ただし、家全体が土間つくりだったという事です。
米百俵で187円という事は、大屋敷が3軒分で、
学校の建設費の一部とは言え、大きな建物が造れる貨幣価値があったようです。

当時長岡藩は焼け野原となり、食糧もままならなかった貴重品だったようで
飢えに苦しみながら小林虎三郎が長岡藩士に説得し
その長岡藩士らが小林虎三郎の説得に応じ、
教育の重要性を受け入れた勇気ある行動力に感銘を受けます。

「米百俵の精神」の故事について米百俵が語るものは、
米百俵
山本五十六元帥と米百俵

リンクで詳しく紹介されています。
雪ん子滝沢直紀メール
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