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白根の架け橋  中蒲原郡と沢海藩  白根新飯田村の丸山庄屋  旧西蒲原郡

中蒲原郡(なかかんばらぐん)と沢海藩(そうみはん)

1878年(明治11年)に施行された郡区町村編制法で中蒲原郡と呼ばれた地域は、
旧白根市・旧新津市・旧小須戸町・旧亀田町・旧横越町・旧村松町・五泉市
および新潟市の一部地域と加茂市の一部地域であった。

昭和に入り市町村合併が進み、旧白根市・旧新津市・五泉市・旧小須戸町・旧亀田町・旧横越町・旧村松町が
平成大合併前の中蒲原地域の三市中蒲原と呼ばれるようになりました。

沢海藩(そうみはん)

1598年(慶長3年)上杉景勝の会津移封により中蒲原地域は、新発田藩・溝口秀勝により統治されるようになり、
1611年(慶長16年)からは、溝口秀勝の次男・溝口伊豆守善勝が、沢海藩として新発田藩の分藩を受け持ち、
旧横越町沢海にその館を置きました。
ちょうど阿賀野川が流れ、交通の面からも便を成す所だったのでしょう。
溝口伊豆守善勝1611年(慶長16)〜
溝口政勝1634年(寛永11)〜
溝口政胤1670年(寛文10)〜
溝口政親1683年(天和3)〜1687年
沢海大栄寺
沢海藩・溝口家の墓所のある沢海大栄寺。
旧中蒲原郡横越町沢海にある。
沢海日枝神社沢海日枝神社のうんちく
溝口政勝により再建されたと伝わる沢海日枝神社。

旧横越町・北方文化博物館

江戸時代前半の1687年(貞享4年)に溝口沢海藩は廃止され、
1707年(宝永7年)まで沢海陣屋と呼ばれた代官所は、知行所という名に変わりました。
時に江戸時代のなかばより小浜氏の統治する沢海で、農より身を起し代を重ねて豪農の道を歩み、
大地主となった一族がありました。それが伊藤家であります。
明治に建てられた豪農の館は、北方文化博物館として登録有形文化財に登録されています。
《一部引用 「北方文化博物館 パンフレット」》
北方文化博物館北方文化博物館入口
正面門と正門入口
北方文化博物館のお庭北方文化博物館の藤
余りの大豪邸に写真がなかなか撮れませんでした。
お庭にある藤の木は5月末には見事な花が見られるという事です。
初代 ・文吉(安蔵)1756〜1821
2代目・文吉(安次郎)1766〜1849
3代目・文吉(為次郎)1791〜1875
4代目・文吉(要之助)1843〜1891
5代目・文吉(謙次郎)1870〜1903
6代目・文吉(淳夫)1896〜1958
7代目・文吉(吉彦)1927〜

沢海代官所・知行所跡

沢海代官所跡
沢海代官所・知行所跡は、旧中蒲原郡横越町にある光圓寺。
1688年(元禄元年) 沢海藩に出雲崎代官の出張所「沢海陣屋」を置く。
初代・竹村惣左エ門 2代・設楽孫兵衛 3代・馬場新右エ門
4代・長谷川左兵衛 5代・鈴木八右エ門

1707年(宝永4年) 「沢海陣屋」廃止となり、「知行所」の名称となり、領主は沢海藩・小浜孫三郎行隆
その後 領主は沢海藩・小浜健次郎継隆
1804年(文化元年) 領主は沢海藩・小浜長五郎
1830年(天保元年) 領主は沢海藩・小浜盛之助
1842年(天保13年) 領主は沢海藩・小浜健治郎
幕末まで小浜氏7代続く

沢海の地名の由来

沢海とは、阿賀野川の洪水により土手切れの際、
土手が沢に変形し平地(農地)が海のように変貌するところから名付けられた地名です。
《沢海御在城実録『古老語伝記』蒲原郡新飯田村石井宗清が記す 1725年(享保10年)乙巳8月 より》
『・・・此昔は囲の堤もなく 洪水の節には水一面に押流海の如く 水引落ても窪き所には水溜り
沢のことくなるによって沢海と名付けるとかや 御屋敷建要害のため二重土手を築たまふ
川筋も年々川除水当り強ければ満願寺前に新川を掘り 沢海の方は随分丈夫に堅めたまえば
何ほどの洪水にも危き事なかりしに ・・・』
満願寺前に新川を掘りとは、阿賀野川の事であり、人工的に掘られた川であった事がわかります。
満願寺とは、旧新津市満願寺にあるお寺の名前です。
満願寺

石井宗清

元は武士であったが、武士を捨て蒲原郡新飯田村の農民となる。
享保4年以降、百姓の百と男と言う事で百太郎と名乗る。
代々百太郎を襲名し、江戸末期に加茂上條に移り住む。
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