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白根新飯田村の丸山庄屋

新潟市南区(旧白根市)新飯田は、江戸時代前半から明治になるまで200年以上に渡り、
丸山庄屋が新飯田村の大庄屋であった。

丸山氏の新飯田(にいだ)入り

上杉景勝が1598年(慶長3年)に会津に移封され、越後は堀秀治のもと、三条城には堀直政が城主に、
新発田には溝口秀勝が藩主に移封された。
1598年(慶長3年)栃尾城の城主となった神子田長門守八郎右衛門が1610年(慶長15年)に廃城になった後、
三条本成寺城を務め、1616年三条城主の市橋長勝が裏館元町に三条城を築城した時、
神子田長門守八郎右衛門の子の神子田長門守が茨曽根城主となった。
その頃、新飯田の館へ丸山氏が一族と共に信州から来住したと思われる。
古文書によると、1644年(正保年間)に丸山庄屋の記録があるとのことです。

新飯田(にいだ)丸山家の古文書

武田信玄の感状
信州飯田より越後上杉に亡命した、旧武田家の家臣・丸山平内兵衛川中島の合戦で戦功をたて
1561年(永禄4年)に武田信玄高坂弾正から送られた感状です。
(江戸時代の新飯田村庄屋を務められた新飯田館集落の丸山家所蔵)
(写真は丸山家所蔵の複写、原本は消息不明)
ちなみにNHK大河ドラマ「天地人」で高坂弾正を演じているのは、俳優の大出俊さんです。( )は当て字
今度於信州河中嶋合戦之利(折)
抜群之働依之永貳百貫文之
處(賞)金可宛行者也
武田大膳太夫晴信入道
        信玄 花押
高坂弾正忠昌信 花押
  永禄四辛酉年 十二月十四日
   丸山平内兵衛殿

読み:このたび しんしゅう かわなかじまにおいて がっせんのおり
   ばつぐんのはたらきにより えい 200かんもん しょうきんとして あてごうべきものなり

千野金太郎先生著「新飯田中学校30周年記念誌(昭和51年1月)」より 
永禄四年の川中島の合戦は、武田信玄と上杉謙信(当時の名は上杉政虎)の第四次川中島の合戦です。
余談ですが、上杉謙信の名で武田信玄と戦ったことは1回もありません。

花押(かおう)とは、Wikipediaホームページによると、署名の代わりに使用される記号・符合をいいます。
署名者本人と他者とを区別するため、次第に自署が図案化・文案化していき、
特殊な形状をもったものになったそうです。

とは室町時代〜江戸時代初期にかけて使用された永楽銭の事で、
貫とは重量の単位でもあるが貨幣の単位でもある。
一文銭が1,000枚で一貫文。200貫文と言う事は、一文銭が20万枚である。
織田信長末期の天正年間の頃(1580年頃)の貨幣価値は、米3升が100文だったと言う。
1文は現在の価値では、50円〜100円、または80円〜100円に相当するらしい。
1文=100円とすれば、1貫文=1,000文=10万円、
200貫文=2,000万円に相当する賞金であったと思われます。
米10キロが約7升で、1升は約1.5キロと換算すると、米3升は約4.5キロです。
この時代の米3升=100文=10,000円相当だとすると、米が非常に高価なものであったと思われます。

丸山家の家紋

丸山家家紋
(丸山家家紋 丸に竹向かい雀 替紋橘)
上杉家の家紋「竹笹に雀」に良く似ています。

丸山家の系譜

丸山家の系譜については、故丸山貞俊氏の記録によるものです。
丸山家の祖先は、桓武平氏小松内大臣平重盛末裔、丸山平内兵衛忠家。
平重朝(人皇五十代桓武天皇後裔、太政大臣平相国清盛嫡子、小松内大臣重盛末裔、信濃国潜居後、
仁科城主丸山三河守盛清の養子となる。幼名虎丸、後伊勢守を号す)

丸山重国(左衛門尉)

重為(丸山佐渡守)

重宗(丸山尾張守)

宗利(丸山伊勢守、女は武田伊豆守室)

宗信(丸山下野守)

信清(丸山清閑斉、女は木曽左馬亮室)

基清(丸山重太夫)

清直(丸山越後守)

直光(丸山安芸守、正応三年1290年浅原氏謀判一味故信州潜匿、女は太田備中守室)

為清(丸山重三郎、女は大井平内室)

信澄(丸山市兵衛)

房信(丸山甚太夫、延元三年1338年、青野原合戦の際、北畠顕家に随い勲功有り)

信景(丸山三郎兵衛)

景光(丸山彦左衛門、天授四戊午年1378年、京都合戦の際、楠正勝に随い功有り)

景房(丸山小文吾)

景直(丸山長四郎)

景秀(丸山兵庫之助、女は赤澤五郎室)

景豊(丸山卯一郎、長禄二戊寅年1458年、赤松の乱に討死、行年二十四才)

秀正(丸山傳一郎)

正頼(丸山作兵衛、女は三村右京室)

忠頼(丸山新三郎)

忠朝(丸山武一郎)

忠家(丸山平内兵衛、永禄四辛酉年1561年、河中嶋合戦に際し、武田信玄公に随い功有り)
右は当家所蔵の系図略記なるも、元亀二辛未年(1571年)二月八日、平忠光が「御尋に付奉書上候所相違無御座候以上平忠光(花押)」の文面で、 武田信玄公に差出した当家由緒記録の文面がある。これに対し、
元亀三申年(1572年)十二月十四日、差出した家系由緒により、 平氏の末裔に相違ない事を認めるという文面の文書を
武田大膳太夫晴信入道信玄(花押)、馬場美濃守信房(花押)の名で、平忠光にあててある。
平忠光は、年代より見て丸山平内兵衛忠家の子孫と推察される。

丸山家の保存品

陣笠陣笠
丸山家の家紋の入った陣笠です。昔、兜(かぶと)を持たない豪族が陣中の際に兜の代わりにかぶった笠です。

こちらは参勤交代の際に使用された御鑓(おやり)だそうです。
また、江戸時代の庄屋御殿の屋敷図原本から屋敷間取り図が描かれておりました。
現在居住されているところに庄屋御殿があったと思われます。

新飯田村と中ノ口川

新飯田村は、戦国時代に上杉景勝の家臣・直江兼続の直江川(中ノ口川)掘削により栄えた村で、
新飯田村の本村は館集落を中心に村が形成されていました。
現在の新飯田の町は、福田川が本格的に完成した1650年頃から発展したと伝えられています。
1599年(慶長4年)3月7日に新発田藩は、鵜ノ森地域の信濃川堤防の小吉島の村々に対し普請を申しつけ、
破堤の時はその受け持ち村の越度とするなどの条目を達しました。

当時の信濃川本流(福田川)と中ノ口川は、たび重なる洪水により破堤し、村は水害に見舞われました。
いわば、丸山庄屋はこの洪水から村を立て直すために、力を注がれた庄屋でした。

集落名で新飯田の字(あざ)にあたる砂原から国道8号線沿いは、その昔は寺屋敷という地名でしたが、
中ノ口川の破堤の際、砂が押し寄せ原っぱになってしまったところからつけられた地名だとか。
新田開発はもちろんのこと、1700年代に中ノ口川の下流域の完成をみるまでは、
堤防修復が丸山庄屋の大切な任務となっていた事が想像されます。

白根市史料集によると、江戸時代半ばより中ノ口川(新飯田〜戸頭まで)の堤防修復任務は、
蒲原郡清水村(現:新潟市南区清水)の五十嵐氏により行われました。
また、『白根市史』によると、明治に至るまで丸山家が200年以上に渡り新飯田村を治めていたと思われます。
 安政元(1854)年に村方庄屋丸山源太左衛門と町方深井半兵衛の二人が庄屋役を御免になり、代わって千野蔵之丞が、この年九月に「庄屋村御町方兼帯庄屋」となった。安政元年に庄屋交代が行われた時以来、町方庄屋深井半兵衛と村方庄屋丸山源太左衛門の庄屋職をめぐる確執があり、双方の嘆願書提出を経て、安政七年四月には再び、丸山源太左衛門深井半兵衛が庄屋役に任じられた。以後、明治に至るまで、この両家が村方町方の庄屋役を勤めることになる。
 千野氏は、幕末の安政元(1854)年九月から、安政六年十二月まで新飯田の庄屋役を勤めているが、庄屋役を勤めた六年間ばかりでなく、新飯田では大きな勢力を持っており、村人には「千野さま」と呼ばれていたという。千野氏は信州出身の郷士で、慶長ころには鵜ノ森(加茂市)に移り住み、後に新飯田に移ったと伝えられている。     『白根市史』より
千野氏については、新飯田(町方)の千野庄屋へどうぞ。

歴代庄屋

千野金太郎先生著「新飯田中学校30周年記念誌(昭和51年1月)」および「白根市史」より
1704年(宝永年間)丸山源左エ門
1716年(享保年間)【村方庄屋】丸山四郎兵衛、【町方庄屋】深井久左エ門
1744年(延享年間)【村方庄屋】丸山源左エ門
1748年(寛延年間)【町方庄屋】千野勘次郎(周平)
1751年(宝暦年間)【村方庄屋】丸山源左エ門
1772年(安永年間)【村方庄屋】丸山源太左エ門、【上新田】渡辺半助
1781年(天明年間)【町方庄屋】千野周平
1789年(寛政年間)【村方庄屋】丸山昇平、名主:太左エ門、【町方庄屋】千野兵八、【上新田】渡辺半助
1804年(文化年間)【村方庄屋】丸山源太左エ門
1830年(天保年間)【村方庄屋】丸山昇平、四郎兵衛、源太左エ門
1844年(弘化年間)【村方庄屋】丸山四郎兵衛、源太左エ門、【町方庄屋】深井
1854年(安政元年)【村方町方兼帯庄屋】千野蔵多、【上新田】渡辺半之助
1860年(安政七年)【村方庄屋】丸山源太左エ門、【町方庄屋】深井寅蔵
1865年(慶応元年)【村方庄屋】丸山哲之丞、丸山桃青(とうせい)、【町方庄屋】深井寅蔵
1872年(明治5年)【村方御用掛】丸山桃青(とうせい)、【町方御用掛】千野蔵多、深井寅蔵
1877年(明治10年)【村方御用掛】丸山桃青(とうせい)、【町方御用掛】千野蔵多
1929年(昭和4年)【合併後新飯田村】丸山千加良(ちから)(助役兼収入役)
以上より、丸山源左エ門、丸山四郎兵衛、丸山源太左エ門、丸山昇平、丸山桃青の名前があるが、
過去帳は丸山家にはないという事です。
雪ん子滝沢直紀メール
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