滝沢農園トップ |
西洋なし/ルレクチェ発祥地 直江兼続と白根大凧合戦 旧白根市新飯田の歴史 中蒲原郡と沢海藩 白根が生んだ彫刻家・千野茂 白根新飯田村の丸山庄屋 |
白根新飯田村(町方)の千野庄屋江戸時代の新潟市南区(旧白根市)新飯田(町方)は千野家が庄屋職にありました。新飯田村 千野家の系譜新飯田村(町方)庄屋の千野家の先祖は、清和天皇後裔、千野太郎光弘。千野金太郎先生著「新飯田中学校30周年記念誌(昭和51年1月)」より
千埜(千野)太郎光弘(初代)1184年(寿永3年)1月21日没女は手塚太郎光盛の室。 伝:千埜(千野)姓の先祖、木曽義仲に従い、近江ヶ原の戦いに戦死。 千埜(千野)次郎光平1236年(嘉禎2年)5月没千野蔵人光孝1547年(天文16年)9月14日没千野太郎光清(16代)1570年(元亀元年)2月24日没天文年中に武田信玄に攻められ、越後国蒲原郡鵜森村に落ち住居する。 千野勘次郎為悦(19代)1616年(元和2年)4月21日没慶長年中に新田村(新飯田村)に移住。 千野杢兵衛尉義泰1743年(寛保3年)4月24日没初め勘次郎、長勝といった。組頭の記録あり。 1742年(寛保2年)新飯田村に田面庵(円通庵)を創建(永安寺の末寺) 千野周平悦泰1799年(寛政11年)4月9日没初め勘十郎、為貞といったが、領主の指令により郎を省略して勘治と改める。 天明7年に庄屋になっている。 千野兵八民悦1811年(文化8年)6月5日没領主の指令により郎を省略して兵八と改める。 寛政年間に庄屋になっている。 千野多仲泰弘1859年(安政6年)1月3日没初め栄吉郎、領主の指令により郎を省略して栄吉と改める。 1826年(文化9年)9月、帯刀御免、三人扶持、取締役格。庄屋宅が代官所を兼ねる。 千野蔵多義徳1890年(明治23年)9月21日没幼名を栄太郎という。長ずるに蔵之丞、義徳、義弘、勘治、多仲、義邦ともいう。 1854年(安政元年)11月に地先庄屋兼帯、1860年(安政6年)12月に庄屋職を辞退し、深井寅蔵氏と代る。 千野勘治義烈1878年(明治11年)7月17日没幼名を徳太郎という。長じて信太郎ともいう。 千野六郎1934年(昭和9年)東京都小金井へ移住。千野茂1913年(大正2年1月15日)生〜2002年(平成14年)4月12日没 行年89歳彫刻家、千野茂作品は白根が生んだ彫刻家・千野茂へどうぞ。 1976年(昭和51年)東京芸術大学教授〜名誉教授 | |
滝沢直紀 |