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新潟市歴史文化課所蔵『実録新潟侠客史』
新潟侠客史1〜お賽銭勘定場 弥彦に集まる親分連
新潟侠客史2〜親分の松を切るなら俺を斬れと啖呵
新潟侠客史3〜新潟へ乗出す惣七へ木山一家のたくらみ
新潟侠客史4〜臥薪嘗胆三ヶ年、見事に親の仇を討つ
新潟侠客史5〜泣く子もだまる男の中の男「戸松の珍平」
中島欣也氏著『戊辰任侠録』(1993年)の参考文献で、
新潟市役所歴史文化課所蔵の浦野左右太氏原稿(昭和16年5月稿)による『実録新潟侠客史』です。
資料名:『新潟懐古帳』(平田義夫氏旧所蔵)
原稿の誤字を修正し、現代かな使いで編集しております。

新潟侠客史5〜泣く子もだまる男の中の男「戸松の珍平」

国定忠治も暫く新潟に居た

 当時川上鼠辺の書いたもので「隅田川花王白浪」と云うのがある。四十回位のもので明治八年頃、横七番町、今の熊谷小路に隅田川と云う屋号で料理屋をやっている堀又一郎の事を書いたものである。この又一郎は明治八年八月に逮捕され東京裁判所へ護送され懲役七年に処されたが、服役中明治十三年八月七日行年五十二で病死した。この隅田川の事は当時非常な評判で芝居にもされたそうである。山本興一郎先生はこの芝居を見たいと云う事で、堀又一郎澤村政十郎五の上藤三郎木村屋い十郎が勤めたが、兄又一郎の入牢している処へ弟の藤三郎が又一郎の倅庄太を連れて逢いに行く愁嘆場は泣かせたものだそうである。これは余談になったが又本論へ戻ろう。
戸松珍平  侠客の何のと云うと実に立派に聞こえるが、言わば法律の裏をかく連中であって、こうした連中は自分等を称してやくざと云い、普通の善良の市民を堅気と云っている。よく木綿の着物に小倉の帯、一文二文の飴を戸板の上に並べて売っても堅気は堅気と云う言葉がある。その堅気ではないと云うのが維新前の新潟にかなりおって縄張りを取ったの取られたのと始終喧嘩をしていた。
 だが是ぞと云う程の者は無かった。何しろ惣七の頃は新潟は長岡領であった。天保の末年からは天領即ち幕府直轄となっては役人の数も多いし、取締りも厳重であってとても郡部のような訳にはゆかなかった。沼垂には維新前後金左エ門今福という親分があった。酒屋の珍平はこの今福の身内であった。維新後の事は一切遠慮するが、戸松の珍平の乾兒割野の嘉太郎と云う男は無茶苦茶に強かった男で色々話がある。
 珍平晩年胃腸病か何かで新潟病院に入院した。しかし何も全治しそうもない。鬼をも挫く(くじく)珍平も先が暗いような気持ちがして、死ぬ前の日に嘉太郎に「嘉太郎、坊主をよんで呉れ」と頼んだ。すると嘉太郎「おや親分、坊主を呼んで呉れって極楽へ行くつもりかい。極楽なんて面倒だし、どうせ極楽へ行かれはしまい。地獄へ行きなさい。嘉太郎もやがて死んで地獄の釜の火焚をする」と笑ったそうだ。
 この時珍平何も云わずじっと嘉太郎の顔を見たが、後になって嘉太郎「あの時ばかりは恐かった」と語ったとの事だ。珍平は強かった。だが町の旦那衆とか一般のものに対しては非常に温順だったそうだが、少し晴雨計の針が曲がると何処まで曲って行くか判らない。当時酒屋あたりのもの、子供が云う事をきかない時「そら珍平が来るぞ」と云うと云う事はきき、泣いた子供も黙ったと云う事だ。弱きを助け強きを挫き(くじき)、義によっては火の中へも飛び込もうと云う元気旺盛で白木綿の褌(ふんどし)に白木綿の腹巻、冬でも素袷(すあわせ)で居ようと云う強さ、真個に男の中の男であったろう。相当名のある連中も新潟へ来ている。しかし御條目の裏をかいている事をして、こっそり来ているから判らない。国定忠治も赤城を出てから流浪の旅、新潟へ来て池上徳右エ門方に暫くいたそうだ。
 何とかして観音寺久左衛門の事だけでも十分に調べ上げたいと思っているが、こういうものはおいそれと誰も知っていると云う訳ではない。従って順序立っての事が判らない。森田喜三次、竹石富七、戸松珍平、戸松甚太郎親子の酒屋亀鶴橋事件の如きは確かに面白いが、今はまだ話すまでには達していない。
 森田喜三次、竹石富七の騒ぎもなかなか面白い。私が竹石方を訪る時、竹石方の竹石の常に居る背後の戸板にはピストルの跡があった。この竹石富七は剣道に達していて喧嘩ッ早い。人をなぐり附けたり傷つけたりして自首する。
 どちらかと云うと無口の方で問えば暫くポツリポツリと話す。酒は余り飲まない。森田も竹石も戸松珍平もみな死んでしまった。ただ戸松甚太郎氏が達者にいるだけだ。確か北海道にいる筈である。
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