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新潟市歴史文化課所蔵『実録新潟侠客史』
新潟侠客史1〜お賽銭勘定場 弥彦に集まる親分連
新潟侠客史2〜親分の松を切るなら俺を斬れと啖呵
新潟侠客史3〜新潟へ乗出す惣七へ木山一家のたくらみ
新潟侠客史4〜臥薪嘗胆三ヶ年、見事に親の仇を討つ
新潟侠客史5〜泣く子もだまる男の中の男「戸松の珍平」
中島欣也氏著『戊辰任侠録』(1993年)の参考文献で、
新潟市役所歴史文化課所蔵の浦野左右太氏原稿(昭和16年5月稿)による『実録新潟侠客史』です。
資料名:『新潟懐古帳』(平田義夫氏旧所蔵)
原稿の誤字を修正し、現代かな使いで編集しております。

新潟侠客史2〜親分の松を切るなら俺を斬れと啖呵

切られかけた観音寺の松の木の由来

 観音寺久左衛門の四天王中之口銀左エ門というのは、三條下た中ノ口川続きには知られた男で観音寺一家世盛りの頃は鳴らしたものだと云う事だ。私は弥彦で昔の燈篭押の面白かった事を聞いて、翌日巻町に竹石富七氏を訪問した。古い話ではっきり覚えていないが、確か今の巻停車場附近らしかった。
 よく来たと通してくれたが、この話の最中に訪れたのが銀左エ門であった。車に乗って来てまだ車から降りない中に芽一番に発した言葉が「あんにゃ居るか」痛快である。そうして色々話をして一杯飲んで又乗って来た車で三方へ帰って行ったが、何にがしかが御隠居様の処へ行ったのは当然である。
松宮家墓所 観音寺久左衛門  昔のこうした連中を見たのはこれが最後であって、これからはもう見ようと思っても見られない。もし生存しているとすれば百歳以上だ。その後岩室、吉田へも行ったし、観音寺久左衛門の元屋敷、松宮家の屋敷をも見たが今はもうあるかどうか、もう随分古い事で判別しないが、私が行った時には屋敷の真ん中、中庭とも思われる処に大きな木が一本あった。私はこの松の木が見たかったのであって何も名のある松の木でも何でもないが、越後一の親分観音寺久左衛門の屋敷跡だと云う興味からと、又一つはこの松の木の根っ子が伐りかけられている。
 それが面白いからであって、こんな事に面白味を持たない方には全く詰まらない話である。それを面白がって見に行くのは一つの興味である。しかし同じ興味でも昔の土器を発掘に行くなどから見ては低級の趣味でお恥しい話であるが、金を費い、時間を割いて見に行ったのだから嘘でも何でもない正真正銘の話である。松を見に行ったのはこういう曰くがあるからだ。
松宮家元屋敷  観音寺久左衛門一家即ち松宮家では維新後新潟へ引越し、市内東大畑通り鶴の湯附近へ家をこしらわれ、その後湊町方面へ移転して昨年九月六日逝去された鏡渕九六郎先生に脈を取られこの新潟で命を落された。その松宮家では維新後元屋敷を他に売却されたが、買った者がここを畑にして昔の街道に面した処の石垣はそのままにして置いたし、中庭の松も昔通りに翠蓋を見せていた。ところがこの松の為に日の当りが悪い、一日中どこかで松の陰になって作物に影響する。自分の畑だから切っちまえと云うので水挽を入れて根っ子から切り始めた。
 するとこれを見たのが近所の連中、成程買い取ってしまったのだから何しようが勝手ではあるが、仮にも久左衛門の家にあった松だ。それをむざむざと伐るとは人情がなさ過ぎると云うもの。そうかと云って伐るなと云う訳にもゆかない。どうしたものだろうと相談の結果、三方の御隠居様に話したらどうだろう、そうだそうだそれがよかろうと云う事になって取り急ぎ御隠居様銀左エ門の処へ御注進に及んだ。
 するとこれを聞いた銀左エ門烈火の如く本当の烈火が如く大憤慨して、大親分の松を伐るならまずその前にこの生き残りの俺を斬れ「野郎共、車だ車だ」と怒鳴ると、二人挽きで駈けつけたのが弥彦村字観音寺、弥彦から寺泊へ行く国道の右側、そこへ大急ぎで乗りつけて大声一番「野郎共その松を伐るなら俺から先に斬れ!」勇ましいじゃないか、この一言で松は無事。
 そうした曰く因縁付きの松であるから、その伐りかけた処を見たかったからであって、銀左エ門老が怒った時の顔はどんなだったろうと今でも時々思う事がある。話が他処へ外れたが、さて新飯田の惣七、今日で言ったら中蒲原郡新飯田瀧澤惣七はー
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