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三遊亭円朝校閲 仇討義侠の惣七
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新潟市歴史文化課所蔵『実録新潟侠客史』
新潟侠客史1〜お賽銭勘定場 弥彦に集まる親分連
新潟侠客史2〜親分の松を切るなら俺を斬れと啖呵
新潟侠客史3〜新潟へ乗出す惣七へ木山一家のたくらみ
新潟侠客史4〜臥薪嘗胆三ヶ年、見事に親の仇を討つ
新潟侠客史5〜泣く子もだまる男の中の男「戸松の珍平」
中島欣也氏著『戊辰任侠録』(1993年)の参考文献で、
新潟市役所歴史文化課所蔵の浦野左右太氏原稿(昭和16年5月稿)による『実録新潟侠客史』です。
資料名:『新潟懐古帳』(平田義夫氏旧所蔵)
原稿の誤字を修正し、現代かな使いで編集しております。

新潟侠客史4〜臥薪嘗胆三ヶ年、見事に親の仇を討つ

新飯田の惣七の次男年蔵

 当時の西堀は今とは全然違って水も美しく深さもウンとあったに相違ない。惣七の船が白山側から信濃川の本流を上って団九郎附近、今の新潟硫酸会社の前辺りへ来た頃はもうすっかり日が暮れた。何しろ下りと違って上りは時間が掛る。惣七は小舟にただ一人、酔って元気でぐっすり寝入ってしまった。
 しかし流石は当地売り出しの大親分。酔ってはいても刀は忘れない。船縁の方へ立て掛けて置く。無論船には苫がかかっていてここへ入る時には匍って入る。昔はこうした俗に鮟鱇(あんこう)と云う小舟があった。私もこの鮟鱇船には数回乗った事がある。今はもう忘れないようだ。一方大野の木山の治六白川の乕は白山浦まで歩いて行った。白山浦のような通りがある訳でない。白山浦に通りのできたのは明治九年だからその頃はまだ通りはなかった。白山神社の裏手の処から船を一艇用意させてあとを追った。初めっから仕組んである事だから無論惣七を乗せた船頭もぐるなのだ。
 治六の船が後を追う、惣七の船はわざとのろのろ行く、惣七の方の船頭はちゃんと待っていて治六、乕の両人が乗れるようにしている。そこへ治六、乕は逸早く乗り込んでグッスリ寝込んでいる惣七の脇腹を短刀でぐさりと一突き、ハッとして惣七が刀に手をかけようとしたが続いて一突き、治六と乕で滅多斬りに斬ってしまった。
 そうして船を附近の土提へ着けさせて、自分達は何喰わぬ顔して大野に帰った。翌朝になって惣七が殺された事が判って大騒ぎになったが何者に殺されたのか判らない。その中に追々船頭も判り確かに大野の木山がやっつけたと云う事が判って来たが何とも致し方がない。乾兒の岩蔵一人位では方法がつかない。惣七の戒名は釋妙剣刃芒莞位、時に三十八歳だった。惣七の長男雛吉当時十七歳、親爺の仇討と云う事になったが剣術の一と手も知らんではと云うので信州に知っている剣道者がいるのでそれを頼って修行に出かけ、一人前になるのを待つ事になったところが、雛吉修行半ばに病気になって死んでしまった。これが文政七年二月二十日と残っている。次男年蔵これがその時十六歳になっていたが、兄貴の代りに剣術修行にやはり信州へ出掛けた。
阿賀野川の本所の渡し場  仇討念願で修行を積む事足掛け三年、十八歳になって来た。愈機を狙って仇討をする事になったのが文政の九年である。文政と云う天保の前、今から百年少し前の事だ。その中に木山の治六、水原代官所への用所を人に頼まれて、白川の乕を連れて出掛けたと云う事が判って、年蔵はこれぞ天の助けと岩蔵を連れて出掛けた。本所千間ッ原、中蒲原郡本所村泰平橋の附近だが当時橋はない。ここで待ち伏せしている処へ治六、乕の二人が渡しから上って来た。
 年蔵、岩蔵の二人はパッと飛び出した。「ヤァ大野の治六、親の仇、覚悟しろ」と名乗って斬りつけた。年蔵は治六、岩蔵は乕に向い合った。治六は十八歳の年蔵に親の敵と斬り込まれ「若造何を小癪な」と渡り合ったが叶わず、左の肩先深く斬られ首をかかれてしまった。一方、乕は岩蔵と斬り合ったが卑怯にも怱ち逃走して行方不明。治六の首は直ぐに新飯田に持ち帰り惣七の墓前に供えたと云う事だが、その頃の事であるから取調べ中、沢海の牢へ入れられだが立派な仇討だと云うのでそのままになったと云う事である。
 親の仇討で年蔵名を売った訳であるが、惣七ほどの腕はなくカスリ取りは親の代だけで終わったという事である。この新飯田の惣七の話は明治年代まではよく話を聞いたものである。ところが今日ではもう百年前の話となってしまって、誰一人話す者もなくなった。明治三十年頃当時の新潟新聞記者新・富樫両氏の筆記したものがあったそうだ。
 又、牡丹燈篭で有名な三遊亭円朝門人三遊亭円新がしばらく新潟にいた事がある。内儀さんは義太夫語りで今の古町通六番町新潟ビルデングの前身新潟観商場の楼上に陣取っているが、これがよくこの話をしたそうだ。それももう五十年前の話である。この円新は後に東京に帰って馬円と改名し立ち帰りに来た事がある。ついでにちょっと話をする。
 昔の新聞の続き物、今の小説は事実談でないと読者が承知しなかった。明治二十年頃までの新聞を見るとよく判る。当時新潟新聞で経営した「新潟藷新聞」の続き物の如きは皆それであった。こうした続き物の如きは皆それであった。こうした続き物の記者として假名垣魯文の門人川上鼠辺一筆庵可候などが来ている。
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古町通六番町新潟ビルデング
古町通六番町新潟ビルデングの前身が新潟観商場
古町通
古町通片桐時計店
現在の古町演芸場の前身は、片桐時計店の隣りの地球館跡
(写真提供:Photo by にいがたなじらねっと@t-nouchi
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