新潟白根の滝沢農園
滝沢農園トップ
三遊亭円朝校閲 仇討義侠の惣七
新飯田の惣七トップ
新潟市歴史文化課所蔵『実録新潟侠客史』
新潟侠客史1〜お賽銭勘定場 弥彦に集まる親分連
新潟侠客史2〜親分の松を切るなら俺を斬れと啖呵
新潟侠客史3〜新潟へ乗出す惣七へ木山一家のたくらみ
新潟侠客史4〜臥薪嘗胆三ヶ年、見事に親の仇を討つ
新潟侠客史5〜泣く子もだまる男の中の男「戸松の珍平」
中島欣也氏著『戊辰任侠録』(1993年)の参考文献で、
新潟市役所歴史文化課所蔵の浦野左右太氏原稿(昭和16年5月稿)による『実録新潟侠客史』です。
資料名:『新潟懐古帳』(平田義夫氏旧所蔵)
原稿の誤字を修正し、現代かな使いで編集しております。

新潟侠客史3〜新潟へ乗出す惣七へ木山一家のたくらみ

縄張り進上の酒盛

 新飯田の惣七、如何にも侠客らしい名である。この惣七には親分と云う者が無い。全く自分一人でノシ上げて来た。先々代観音寺久左衛門を兄弟分とし、当時の大親分長岡石内の綱助とも兄弟分となった男で、自分の縄張りは自分で拵えたものであった。父親は長兵衛、母親はおたねと言った。船乗りが営業で新潟から三條への貨物又は長岡への荷物を運ぶ長船乗りだった。子供の頃から手に負えない利かん坊、はじめ附近の百姓屋へ奉公にやられたが、とても勤まらない。
 仕方がないから親の商売の長船乗りになり、新潟、小須戸、三條、長岡を往業していて、暇さえあれば博奕三昧、一番名を上げたのが高野宮新光寺の施餓鬼の時だ。六分、三方の若い者を相手にして大喧嘩をやらかし、当時新飯田は中蒲原郡沢海の領分であったから沢海の牢へ入れられるに至ったが、和解成ってからウンと男を上げ、観音寺一家とも弥彦の燈篭押の時、大騒ぎをやった。又長岡の綱助親分とは浦佐の毘沙門堂の祭に何れも単身で喧嘩した。そうして惣七の肝っ玉の太いのに驚かされて、皆兄弟分として盃を分けたのである。惣七はこの勢いで椎谷の馬市に大野の木山治六とも喧嘩した。この大野というのは新潟電鉄沿線の大野の事であって、木山の治六と云うのはここで男を売っていた、なかなか好い顔であったが、治六と喧嘩した。喧嘩と云っても自分の方は一人でやるのであって余りの度胸の良さに、久左衛門が中に入って兄弟分とした。そうした勢いであるから下越ではもう押しも押されもしない大親分になって子分の数も増えるばかり、今ではもう船乗りなどしない。カスリ取りとなって天下に恐い者なしと云う程になった。丁度戦国時代の武士のようなもので、自分の実力一つで自分の縄張り、領分を大きくしていた。
 さあこうなると欲しいのは新潟だ。文化・文政の頃は新潟は決して今日の新潟ではないが、何と云っても越後の新潟で和船時代には日本海方面第一の港であったから、相当人も入り込むし自然賭博する者もあり、こうしたカスリ取り連中には大事な処であった。当時この新潟のカスリをどういう者が取っていたかと云うと、大野の木山治六一家が取っていた。
 そうしてこの治六には白川の乕(とら)という乾兒があって、これが親分代理で新潟に頑張っていた。家は今にしたら西堀前通五番町善導寺前の小路中で、古町の方の表は住吉屋栄六と云う宿屋であったとの事である。木山の治六の独り舞台だったから惣七何で黙っていよう。「木山は生意気な奴だ。新潟港を縄張りにしているのはひどい。どうしても取って呉れなければならん。オイ岩蔵ついて来い」と云うので堂々と人の縄張りの中へ入り込んで大ビラにカスリ取りを始めた。さあこうなると納まらないのは木山一家だ。
 ところが新飯田の惣七の無茶に強いのはよく知っているのみならず、椎谷の馬市以来観音寺久左衛門の仲人で兄弟分の盃を飲みかわしている。そうなると「オイ兄弟、余り酷い(むごい)じゃないか。新潟のカスリを取るのは止してもらおう」とも云えぬ。又云ったところで「そうかい悪かった」と云って引き下るような惣七でもない。乾分の白川の乕と色々相談したが、とても円満に事が運ぼうとは思われない。苦肉の策、まず妥協をしようと考えついた。
 木山から惣七へこう云って申し送った「元々新潟は俺が誰かからもらったというものでもない。云わば切り取ったのだから一人で全部取ると云うのも人が良すぎる。よって新潟を半分づつ俺とお前とで仲良く分けよう」こう云って惣七の返事を待った処がどうだ。惣七の返事は剱もホロロだ。「何を箆棒(べらぼう)め、半分づつ分けようって、おかしくって、俺は俺で新潟のカスリは皆取るんだ。嫌なら嫌で勝手にしろい」全く惣七の言い草は乱暴なものだった。
 しかし登る旭日の勢いの惣七の事、一年取った木山は手向う術もなかった。その結果木山は恐ろしい事を巧らんだ。運よくと生唾をぐっと呑んで「惣七、俺ももう年だ。お前は今売り出しのチャキチャキの事だから奇麗に新潟はお前に進ぜよう。今後とも仲良くしようぜ」とあきらめ、ここで縄張り進上の大酒盛をして互いに飲んだ。腹に一物ある木山は盛んに惣七に飲ませて、自分は飲まないようにしている。
 側に居た白川の乕も酔はない。酔拂うのは惣七だけ。しかも惣七の側は誰も来ていない。いい潮時と見て治六「惣七、お前は今日は片原(東堀)のおきんの処で泊るのだろう。俺はここに泊るのだが」と水を向けると惣七「いや俺は帰るのだ。どうしても明日足さねばならん用があるのだ」「そうかい、泊ったらどうだい。もう夕方でもあるし、これから新飯田まではとてもえらい事だ。何、白根に泊るのだ?そうか、それにしても大変だな。じゃどうしても帰るのか。又近いうちに新潟へ来てくれ、そうして飲み直そうぜ」
 これが最後の別れになるとも知らず、惣七は又新潟が一つ増えたと云う元気で新津屋小路古町角、秋田屋清兵衛横手堀、今の明治製菓から船を仕立てて白根へ向った。
新潟侠客史2へ戻る  新潟侠客史4へ続く
inserted by FC2 system