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新潟市歴史文化課所蔵『実録新潟侠客史』 新潟侠客史1〜お賽銭勘定場 弥彦に集まる親分連 新潟侠客史2〜親分の松を切るなら俺を斬れと啖呵 新潟侠客史3〜新潟へ乗出す惣七へ木山一家のたくらみ 新潟侠客史4〜臥薪嘗胆三ヶ年、見事に親の仇を討つ 新潟侠客史5〜泣く子もだまる男の中の男「戸松の珍平」 |
蒲原郡新飯田村の越後侠客・滝澤惣七の実伝です。新飯田(にいだ)の惣七滝澤長兵衛⇒滝澤惣七⇒滝澤年蔵の3代に渡る物語で、文政9年(1826年)に年蔵が仇討するまでの事が書かれています。 義侠の惣七と言われて、強き悪を挫き弱き善を救った物語があり、 三遊亭圓朝校閲、三遊亭円新(後の7代目司馬龍生、後の土橋亭里う馬)の「敵討義侠の惣七」です。 第1席〜第20席(P7よりP224) (・・・は書物脱落または解読不能、■文字不明、【 】は推測) この書物は当家に残るもので、既に紙がボロボロとなっており、 全文を読むことは不可能になりました。出版年は1899年(明治32年)。 ◆ 国立国会図書館デジタルコレクション「敵討義侠の惣七」 明治20年代、三遊亭圓朝門人三遊亭圓新がしばらく新潟にいた時期があり、 新潟古町観商場の古町山亭定席にて惣七の話を講談した。 これを新潟新聞の記者で新(あたらし)記者と富樫(とがし)記者の両氏により 江湖(こうこ)に伝えようと平生の健筆を走らせ、筆記して一小冊と成す。 ◆ 新飯田の惣七の墓所墓所は新潟白根の滝沢農園(2010年7月17日撮影)越後侠客の新飯田の惣七(そうしち)は、 文化・文政時代に新潟下越地方で一匹侠客として名をとどろかし、 観音寺久左衛門の7代目・松宮藤助、長岡石内の高橋綱助、上州の大前田栄五郎などと兄弟分となる。 観音寺久左衛門、大野町の木山治六、新飯田の惣七は、北越三大侠客とも呼ばれたようです。 新飯田の惣七は、1823年4月17日(文政6年)現在の新潟市白山浦〜関新の信濃川の船で 大野町の木山治六に寝中に襲われ命を落としました。 現在、滝沢農園で惣七のお墓の墓守をしています。 ◆ 法名:釋妙剣刃芒莞位(しゃく みょう けん はん ぼう かん い) お墓の高さは約2Mです。 (浄土真宗では法名と言い、戒名とは言いません) 建立後200年近く経過し、墓石の文字は全く読めません。 もともと四つ屋根作りをしていた墓石頭部が、長年の風化で墓石本体の上に崩れ落ちました。 ◆ (2021年4月15日撮影)滝澤家の墓所再建に際し、惣七墓所の基礎も再建しました。 惣七墓所の墓石は当初のままです。 石材店によれば墓石の一番上に家紋が浮き彫りされているとのこと。 うちの家紋のようにも見えるが、風化により形もよくわからない。 ◆ 墓所に案内版を設置しました。墓所は東向きで案内版は北向きです。 当墓所は文政時代からこの場所にあり、元々滝沢農園の畑の東先端にあったそうです。 建物は私の父の姉の嫁ぎ先ですが、元々滝沢農園の田んぼだった場所です。 よって滝澤惣七は滝沢農園の先祖に当たる方になりそうです。 ◆ 明治期の戸籍謄本は現存しておらず、大正期の戸籍謄本からしか役所にはありません。 浄土真宗の菩提寺が明治期と大正期の2回火災にあい、過去帳を消失してしまったとのこと。 証明できるものは何もありません。想像するにその後生まれた滝澤太七の名は 惣七のように肝っ玉の太い人になるように命名されたのかもしれません。 以後、滝沢農園の屋号は太七です。 「敵討義侠の惣七」目次この書籍より推定される惣七の生誕は、惣七・・・1782年(天明2年)蒲原郡新飯田村生まれ
「残る月影 義侠仇討」「敵討義侠の惣七」の続きに「残る月影 義侠仇討」がある。国立国会図書館デジタルコレクション「残る月影 義侠仇討」 この書籍によると、滝沢年蔵は歳蔵と書かれていて、木山一家に逆仇討され その傷がもとで数年後に亡くなってしまう。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
滝沢農園滝沢直紀(takizawa-naoki08181@r6.dion.ne.jp)まで。 |