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新潟市歴史文化課所蔵『実録新潟侠客史』
新潟侠客史1〜お賽銭勘定場 弥彦に集まる親分連
新潟侠客史2〜親分の松を切るなら俺を斬れと啖呵
新潟侠客史3〜新潟へ乗出す惣七へ木山一家のたくらみ
新潟侠客史4〜臥薪嘗胆三ヶ年、見事に親の仇を討つ
新潟侠客史5〜泣く子もだまる男の中の男「戸松の珍平」
中島欣也氏著『戊辰任侠録』(1993年)の参考文献で、
新潟市役所歴史文化課所蔵の浦野左右太氏原稿(昭和16年5月稿)による『実録新潟侠客史』です。
資料名:『新潟懐古帳』(平田義夫氏旧所蔵)
原稿の誤字を修正し、現代かな使いで編集しております。

新潟侠客史1〜お賽銭勘定場

弥彦に集まる親分連

『新潟県肖像録』小須戸の森田喜三次  新潟を主とした昔の侠客物語ーそれも面白いであろう。では私の知っている侠客の事を二三話てみよう。越後では何と云っても観音寺の久左衛門、長岡石内の綱助など有名であって、これに伴って大前田の栄五郎、祐天吉松、国定忠治、竹川森太郎、信夫の常吉といった親分連中が登場する事になるが、新潟を主としてはよくラジオに放送される和島の千代蔵がある。しかしこれは調べるのに文献もなし、又有る筈も無いから困りものだ。とにかく大前田の栄五郎、国定忠治、竹川森太郎などはある点までよく判るが、それ等の事は直接この新潟には関係がないから除いておこう。
 さて又維新後の酒屋の珍平、小須戸の森田喜三次、竹石富七等の事件は時代が浅いので色々面倒な事もあり遠慮するが、珍平の鶴亀橋騒ぎの如きは現に関係した者も居るから後日よく聴いて話す事にして、今から丁度百年少し前、文政九年十二月二十日、中蒲原郡本所村千間ッ原で仇討をした新飯田村惣七の事を先に話そう。
賽  新飯田村と云うと別段新潟に関係がないようであるが、この惣七が新飯田から出掛けて来ては新潟のカスリを取っておったのだから、言わば見ようによっては新潟の侠客ーまあ親分とも云えるであろう。この話に入る前にちょっと聞いてもらいたい事がある。近く弥彦に燈篭押の神事があるが、昔この燈篭押のある時には附近の所謂親分連が集まるのであって、お賽銭勘定場の名目で盛んに一天地六東西四三南北五二の賽をいじくったものだ。そうして惣七も燈篭押には新飯田の惣七として大いに羽振りを利かしたものである。
燈篭押 写真提供:弥彦観光協会へリンク  私のまだ若い頃、こうした侠客連の事を知りたいと思って、当時汽車もなし蒸汽船が燕まで通った時の事、新潟から弥彦まで通し車で行く身分でもなし、するから脚胖に草鞋穿き洋傘を一本持参して、木綿の形付屋の形帳を着物にしたのを着て、全く今考えてみるとお恥しい話であるが、そんな格好で出かけた事がある。
 弥彦へ着いたのがもう宵、何だって新潟から弥彦まで九里の道中、一時間一里としても九時間はかかる。着いてみると宿屋は何処でも満員、今の鹿の居る附近あの辺りにズッと煮茶屋が掛ったもので、その煮茶屋のある家へ私は陣取った。座敷というのが松の葉を敷いた上へウスベリを敷いたもの。ワッショワッショの燈篭押を見て、お山をかけるにはまだ時間は早く、一眠りして戻って来て多勢の人と一緒に大きな蚊帳の中へ入った。だがガヤガヤして眠れるものではない。前に後に枕を並べている連中の話をきいているうちに、「おい亭主居るか今年は駄目だ」と表から入って来た人がいる。
中之口の銀左エ門の肖像画 すると亭主と云われたのが「いやこれは御隠居様、ようお出でなさいました。余りうまい事はございませんでしたか」「ウン駄目だ。酒の仕度をして呉れ」「ヘイ承知しました」と仕度にかかるらしく色々の話をしているがどうも尋常のものではないような気がする。
 蚊帳の中から注意して見ると年配はもう七十位、髪は白髪、顔は赤ら顔、見るからに頑丈そうな矢口の頓兵衛、見たような親爺で話しっぷりが如何にもきびきびしている。これは只者ではない。一つ材料にしてやろうと話に注意していたが、これぞと続った話もなく、飲むだけ飲み食うだけ食うとツイと立って行ってしまった。いよいよ怪しからぬ話だ。ところがその時は判らずに終ったが、翌日当時巻町で鳴らしていた竹石富七の家で偶然会ってきくと、これが観音寺久左衛門の四天王中之口の銀左エ門と云った男で、今は御隠居様と云われているのだと判って成程と思った。
新潟侠客史2へ続く
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