新潟白根の滝沢農園
滝沢農園トップ
直江兼続と白根大凧合戦  白根が故郷 山本権兵衛海軍大将の妻/山本登喜子

白根が生んだ彫刻家・千野茂  白根新飯田村の丸山庄屋  白根新飯田の惣七

日本プロボクシング界草分け拳闘家/滝沢吉助  堀部安兵衛と長井家 白根牛崎

忠臣蔵 堀部安兵衛と長井家 新潟白根

忠臣蔵の赤穂浪士四十七士の一人である堀部安兵衛は、15歳から19歳の間、
姉きんが嫁いだ蒲原郡牛崎村(旧:白根市牛崎 現:新潟市南区牛崎)の長井家で剣術に励んだと伝えられています。

中山安兵衛が暮らした長井家屋敷跡

長井家屋敷跡長井家墓地
長井家屋敷跡にある長井家墓地は田んぼの真ん中にある。

堀部安兵衛ゆかりの松

下記の文面は、長井家墓地の『安兵衛ゆかりの松』で、文章の一部に誤りがみられますが、 そのまま掲載します。
 堀部安兵衛武庸(たけつね)(1670年生)は新発田藩溝口家の家臣中山彌次右衛門の嫡男で、当時中山安兵衛応庸と称した。 高祖長井源七郎とその室(山内修理)の間に清左衛門(1609年没)と瑞雲院(1634年没)が誕生。 その瑞雲院は新発田城城主溝口秀勝公(1610年没)に嫁ぐ。二人の間に五女糸姫(秋香院)が誕生。 糸姫は溝口四郎兵衛盛政に嫁ぎ、るい(宝樹院妙巌信女)誕生。るいは中山彌次右衛門に嫁ぎ、きんと安兵衛応庸が誕生する。
 誕生するや母は逝去、祖母の秋香院の手で三歳まで育てられた後、実父の元で少年時代を過ごす。 安兵衛十五歳の時、父彌次右衛門が致死・逝去の後、天和三年(1683年)から元禄元年(1688年)までの間、実姉きんの嫁家先である牛崎の当長井家を頼り寄食していた。 その間五代目当主彌五右衛門正房の教導を得、日夜勉学と剣術に励んだと伝えられている。 十九歳江戸出府の折、当長井家の先祖が美濃の国より伝来の名刀と安兵衛持参の越前住相模守藤原国綱の銘入りの長刀とを取り替え、 五両の金子を持ち、彌五右衛門姉聟(むこ)佐藤新吾右衛門を頼って青雲の志を抱き江戸に出立した。
 出府後数通の書簡を当家に送っている。現存するのは二通で一通は六代目彌五左衛門正房宛に寄食したお礼や義父堀部彌兵衛命名の長男安之助が 当七月七日に誕生した事などを知らせている。もう一通は元禄十二年九月十五日付にて七代目当主彌五左衛門政慶(先代彌五左衛門を襲名した安兵衛の甥)宛に書送った書簡、 安兵衛の長井家に寄せる心情や甥への教誨・学問の必要性、江戸での自身の生活ぶりなどがこと細かに記され、 三十歳代とはとても思えぬ老大成ぶりが感じ取れる書簡である。またこれは江戸在住の安兵衛が浅野家に仕官したその後の消息を窺い知ることができ、 安兵衛自身が浪人から出府するまでの過渡的の境遇をも考証するに足る資料である。
 新発田城城下の私塾積善堂の丹羽伯弘は十二代当主恭安の時代に安兵衛の書簡を拝読、「儒学の長けその書法は尊円王流、筆勢は温情にして円麗、 安兵衛四十七士の一人として義挙は百三十三年を経た今も世人は追慕する」と賞賛してやまない。十三代松堂の時代にも寺門静軒が寄宿し書簡を今に残す。
 元禄十五年二月頃より赤穂浪士安兵衛長江長左衛門の変名を用いて本所林町に居を構えていた。 十二月十四日吉良邸に討ち入り見事に本懐を遂げた。そのあらましを『堀部武庸記』に書き残し後世に伝えている。 しかし今生の別れに先立ち、安兵衛が幕府に差し出した親類筋への暇乞いの書簡の中には当家に累を及ぼすことを懸念してか長井家の名は見当たらない。 あれだけの忠実なる筆使いが一通の書簡も残す事なく弱冠三十四歳にしてその生涯を閉じた。 悲壮なまでにその武士道を貫いた安兵衛の心中を察するに余りある。泉岳寺にて眠る。戒名 刃雲輝剱信士
 この松は中山家菩提寺新発田市長徳寺にあった安兵衛手植えの松が樹齢三百余年を迎えるに当たり、安兵衛を偲ぶよすがとしてその二代目を長井家墓地に植樹したものである。
                      平成十八年十月吉日
                        十八代当主 長井源太郎
<アンダーラインについて>
「祖母の秋香院の手で三歳まで育てられた」とあるが、wikipediaによると、
1670年生の安兵衛武庸と1636年(寛永13年)に死去した秋香院との間に面識はなく、
溝口盛政は秋香院死後、新発田藩家老柿本正方の娘を後妻に迎えているので、
三歳まで育てた祖母とはこの後妻と推測され、堀部安兵衛の母るいは後妻との間に生まれたとされている。
よって堀部安兵衛と溝口秀勝の間に血縁関係はないことになる。
長井家墓地にある堀部安兵衛ゆかりの松堀部安兵衛と長井家系図
長井家の家宝堀部安兵衛直筆の書簡二通と長井家に滞在中に使用されていた長刀
及び姉きんが使用した刺身包丁等は平成元年8月4日に新発田市に寄贈された。

堀部安兵衛の姉ちよは父親の先妻だった?

平成24年5月8日毎日新聞新潟版によれば、堀部安兵衛の姉ちよは父中山彌次右衛門の先妻だった可能性が出た。
冨沢信明新潟大学名誉教授が中山家菩提寺の過去帳から発見。
1665年(寛文5年)1月没、安兵衛の父中山彌次右衛門の内(うち)と記されていた。内は通常、妻を指す。

これまで堀部安兵衛には3人の姉がいて長女ちよは夭折とされていたが、先妻だった可能性が出たことにより
堀部安兵衛の姉きんは、ちよの子の可能性も出て堀部安兵衛と異母兄弟の可能性もある。
堀部安兵衛の母るいは、1670年(寛文10年)5月12日没。安兵衛の誕生は同日と思われる。

長井家

長井家の高祖長井源七郎は美濃国の由幸城城主で、土岐家重臣長井七郎左衛門尉秀弘の曾孫、
長井藤左衛門尉長弘の孫、長井藤左衛門尉景弘の子である。
1534年(天文3年)美濃で景弘は後の斉藤道三により死をとげた後、長井源七郎は戦乱を逃れ安住の地を求めて
先に朝倉家の計らいで加賀国大聖寺に住んでいた娘婿の溝口秀勝を頼って越前に移住した。
長井源七郎のもう一人の娘は山内家に嫁いだ。

2代目長井清左衛門(1609年没)は瑞雲院(1634年没)の兄弟であり、1598年(慶長3年)溝口秀勝
新発田藩新発田城城主の出世に伴い、客分として迎えられ水原に居住し五千石を賜り、新発田城の縄引をした。
4代目長井彌五右衛門藤堂(元和6年1620年1月11日没)の時、
藩を退き藩中の中の口組牛崎村(蒲原郡牛崎村)に移住する。
5代目長井彌五右衛門正房の時に中山安兵衛が長井家に来る。
6代目長井彌五左衛門正房(妻が実姉きん)宛に安兵衛が書簡を出す。
7代目長井彌五左衛門政慶宛に安兵衛が書簡を出す。

雪ん子滝沢直紀メール
inserted by FC2 system