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三遊亭圓朝校閲 司馬龍生講談 (明治32年出版より)敵討義侠の惣七 第20席惣七の二男・年蔵の仇討ち
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216 | 引き続いて伺います。この年の四月下旬にようやく雪が解けましたから、金岡方より雛吉の死亡しました訃言が参りました。おさよをはじめ一同の者は驚いて、早速岩蔵を遣わしました処、既に死骸は火葬にして有りまする事ゆえ、岩蔵は万事の礼を厚く述べまして |
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遺骨を背負いて帰りまして、それも念頃に葬りました。翌日おさよは年蔵に向い さよ「おまえも知っている通り、お親父さんは非業の御最後、その仇が討ちたいと兄さんは修行中に果かなくなり姉さんは女のこ事、おまえより外に仇を討つ者がいないから、善くお母さんの言う事を聞いてお親父さんの敵を討たなければいけないよ。」 年「案じなさんな。私が追付け敵は討つ所存。」と話の中央へ門口から 「ちと、お尋ね申したい。惣七さんのお宅はこちら・・。」 さよ「誰殿でございます。」と見ますると、立派な武士でございます。 さよ「何方からお出でござります。」 武「手前は信州上田鍛冶町、松江右一郎の倅(せがれ)、縫之助と申す者、この度倅(せがれ)が眼病に付き菅谷の不動へ参詣に参りし、序で(ついで)久々にて一寸お尋ね申しに参った。」 さよ「それはよう、お出なさいました。さあお上り遊ばしませ。」と濯ぎ(そそぎ)を出しますると 縫之助は足を洗い、刀を片手に提げ(さげ)、奥へ通りまして尋常(ひととおり)の挨拶もすみ 縫「さて惣七殿は何方へか、お出でござるかな。」 |
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さよ「はい。夫は昨年の四月十七日に死去致しました。」 縫「なに惣七殿は死去なすったと、少しも拙者は存じなかった。んて御病気は何病でござった。」 さよ「病死ではございません。人手に懸って相果てました。」 縫「人手に懸って果てられたと。して何人の手に掛って。」 さよ「大野の木山治六と申す者に殺されましてございます。」 縫「彼程の大丈夫をいかにも残念な事を致したなあ。」年蔵は手を支え 「旦那様、親父の仇が討ちとうございますが、百姓の事で刀を抜く事も知りませんから致し方がございません。」 と涙ぐむを縫之助は見て 縫「むー。子供ながらも感心な心掛け、天晴れ。それでこそ侠客惣七殿の子だ。定めて聞いても居られるだろうが自己の父も親の仇を討ち損じ、入水して自滅させたれば本国へ立ち帰り打ったと申す証拠がなく遂には永の浪人となり自己に至って二代の間、無念の月日を送り申す。その主従の因縁ある惣七殿が人手に掛り非業の最期を遂げられたとは母子の心中、お察し申す。よしよしその志を見るからは、これより年蔵殿を自己が連れ帰り、一両年の間、武芸を教授た上、敵治六とやら言う者の首を挙げさせ、惣七殿の無念をはらすでござろう。」 |
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年「あー有難い。御辞ば何卒その様にして下さいませ。」 さよ「母子の者を不憫(ふびん)と思し召し、何分ともにお引き立てをお願い申します。」と ここにて年蔵を縫之助が預かりまする。相談が極り、それより二三日逗留致しまして年蔵は縫之助に従い新飯田村を出立致しました。これから順路、長岡柏崎高田善光寺と参りまして、早上田へ着きました。縫之助は年蔵を家内の者へ引き合いし内々その意味を話しまして、翌る朝から年蔵を稽古場へ呼び出し面小手を着けさせ、教授致しました。年蔵も一生懸命に励みますれど生得不器用でございまして中々気強くまるで麦打ちの通りですから縫之助も種々骨を折り教えまするが、何分にもいけませんで困って居りました。 |
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或る時縫之助の倅(せがれ)周三と申すが、年蔵の様子を見て気の毒に思い 周「年蔵、お前は余程不器用だな。剣術が出来ないかえ。」 年「如何してもいけません。」 周「出来なければ出来るよいお守りを私が持って居る。これをお前に遣ろう。がしかし大切な物だから無事(ただ)は遣られん。これしなさい。ここで小手返しをしよう。私の小手で十打ったら、このお守りを遣ろう。打ち損なうとこの弓の折れでお前を打が如何だ。」と聞いて年蔵は喜び 年「本当にお前さん、剣術の上手になるお守りを持って、お出なさるのでございますか。」 周「左様」 年「十打ったらそれを下さいますか。」 周「如何にも。十打ったら遣ろう。打ち損なうと頭だよ。」 年「宜しい。」と これより小手返しが始まりました。十の事をさておき、一つも打てませんから年蔵は口惜しがり如何がなして打とうと色々に工夫を致しますれど、たまには二つ三つ位は打てますが到底十所か五つとは打てませんから弓の折で番毎に頭を打たれます。 |
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年蔵も腹立ち紛れに一生懸命毎日毎日、隙さえ有れば小手返しを始めましたが習うよりは慣れろで、二ヶ月計り遣りますると、先ず七つ八つ位までは打てる様になりました。縫之助は、斯かる事とは夢にも知らず、この頃年蔵の武芸が俄か(にわか)に進みまするを不思議に思いまして 縫「これ年蔵、貴様はこの頃神信心でも致したか。不思議に剣術が上達致したが如何した訳だ。」 と申しまする。後ろの唐紙を開いて 周「年蔵の武芸の上手に成ったは、この周三がしたのでございます。」 と出て参りましたを縫之助が見て 縫「なに、年蔵が武芸の進達はその方が致したと。」 周「左様でございまする。年蔵は至っての不器用で、お父上がこれ程お骨を折りなされても上りませんから可哀想に存じましたから、実は剣術の上手でなる御守りを持って居るから自己を小手返しで十打てばこれをやり、打ち損なえばこの弓の折で打つが申したのを年蔵は本当に思いまして、その守りが先さに今日で百日程、小手返しを致しましたでしの間はようよう一つ二つより打てませんでしたが、この頃は八つ九つも打つ様になりました。 |
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これが若干、剣術の足になったのかと存じます。」と聞いて、 縫之助は我が子ながらも周三の頓智を感じました。それより年蔵はますます怠りなく丹精を凝らしまする中、早三年の光陰を送りまして剣術も余程使えるようになりましたから、縫之助はこの腕前なら仇の討ざる事はよもあるまじと思いましたから、年蔵にも言い含め郷里の新飯田村へ帰る事になりました。さても年蔵は、新飯田へ帰りまして母に委細の物語を致しますると、母の喜びは元より子分の岩蔵も大方なずら悦びまして、近々の内に父の仇を討たんと付けねらいまする事を観音寺の久左衛門が聞きまして、穏やかならん事と存じましたから密かに仲人を入れまして色々扱い仇討を止めさせんと計りましたが、年蔵は到底聞き入れませんから久左衛門も今は、よんどころなく手を引きました。 |
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その十二月廿日の朝表から入って参りましたのは子分の岩蔵でございます。 岩「若親分、いよいよおまえさんと自己が命を捨てるか、後の世まで名を残すか二つに一つの時節が来ましたぜ。」 年「エー、敵の安否が分ったか。」 岩「昨夜から大野へ行って段々様子を探った所が、治六は水原の代官の供をして葛塚へ行ったと聞きました。その帰りを待ち請けて尋常に名乗り掛け、親の仇、親分の仇、たとえ幾十人の加勢が有るとも、こっちはこぶんを一人も連れず、二人の力を一つにして、片っ端から斬りたおし、日頃の怨みをはらそうじゃないか。」 年「むーむ、善く言った。それじゃ、おっ母、おいらは直、岩蔵を連れて。」 さよ「もしも叶わぬその時には、二人とも活きて再び内の敷居はまたげなかろうねぇ。」 岩「姉さん、御心配はございません。三日立たない中に治六の首を引き提げて、親分の墓へ手向けましょう。」 年「仕損じた日にゃ、岩蔵とその場も去らず、さし違い、あの世で親上に言い訳しよう。」 |
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さよ「それ聴いて安心した。ちっとも早く支度して行きな。」 岩蔵は茶碗に水を入れて持って参りまして、 岩「さあ、門出の盃、祝いて一口」と、おさよ、岩蔵、自分が飲みまして、「えい」と一声茶碗を握り壊しました。この勢いに励まされて岩蔵も立ち上がり、 年「おっ母、いい吉左右を待っていなさい。」と、岩蔵もろとも表の方へ駆け出しますと、おさよは後ろ影を見送りまして、ほろりと涙をこぼしました。ころに大野の木山治六は今日がこの世の門出とは神ならぬ身の白川の虎を引き連れ代官を水原まで送りまして、帰り掛け葛塚から道を急ぎ、大野へ帰ろうと本所村の渡し場まで参りまするが、こちらは年蔵、岩蔵に向い 年「もう追い付き来るだろうか。」 岩「左様だ。もう間も有るめえ。」 年「時に自己は治六の顔をはっきりとは知らねえぜ。」 岩「それやぁ心配はない。今にも来たら私が先へ廻って顔を見て、治六なりゃ持ってる笠を放り出すから、それを合図に名乗り掛けなさい。いざと言や、私が飛び出しますから・・・」 |
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年「大丈夫だ、笠を投げるを合図としよう」と待つ間程なく渡し舟が岸辺に着きますと、船より上がる木山治六に白川の虎が続いて参りました。岩蔵はこれを見て 岩「若親分来たぜ、顔を見られちゃ不宜、私が先に行くから」と早足で先へかけ抜けました。年蔵は治六と虎蔵の跡につき、渡し舟より四五町参りますると千間原という原がございまする。 その原の中央頃まで来ますと白川の虎が 虎「親分、ちょいとご用達だ、先へ行ってくんねぇ」と片辺を向き、たたずんで小便をして居まするから治六はぶらぶら歩きますると向うから岩蔵が参りまして 治六の顔を見るより持っていました笠を投げ捨てました合図に年蔵は跳ねりかかって声高く 年「木山治六よくきけ、自己は新飯田の惣七のニ男、年蔵であるぞ。三ヶ年以前、我父惣七を白山浦において卑怯にもだまし打ちにした。その時の怨みの刃(やいば)、今あらためて受け取れ」と抜き打ちに肩先へ切り掛けました。 |
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治六は不意を打たれましてあっと一つと足退きましたが、今更仕方もありませんからなに小癪な青二才と一刀を抜き合わし、互いに秘術をつくして戦いましたが、 治六は一と太刀深傷を受けて居りまするから次第次第に弱りまして、年蔵が一と足飛び込んでエイと声掛け突きを入れました。鉾先に喉を貫かれ後ろへ堂と倒れまするを年蔵は乗りかかり 「新飯田の住人滝澤年蔵、親の仇、木山治六を打ち取った」と大音で名乗りついに首を上げました。これより先、白川の虎は小便をしながらこの方を見ますると年蔵が飛び出しましたから 「己れ」と言いながら駆け出しまするを横合いから岩蔵が切ってかかりますから振り向く機合横面を切りつけられ、アッと言って傷を押さえながら何処へか逃げてしまいました。 これから岩蔵は懐中より風呂敷を取り出し首を包んで背負いまして、両人は急ぎ新飯田へ立ち帰り、母に首尾よく仇を討ちたる事を知らせ、直に治六の首を惣七の墳墓にたむけ |
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これより両人は沢海のお役所へ訴え出ましたところ、立派に仇討ち致しましたに相違ないのにございますから、そのまま無罪放免になりました。
さてその後、年蔵は父の跡を継ぎました。また兼松はまもなく死刑になりました。小富はどうなりましたか、行方知れずとなりました。
まずはこれにて結局と致します。長々ご退屈様。 この続きは実録新潟侠客史4へどうぞ。 |