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三遊亭圓朝校閲 司馬龍生講談 (明治32年出版より)

敵討義侠の惣七 第17席

兼松の逃亡

184 さて引き続き申し上げます。兼松は召し捕りの上、厳重に入牢になりましたが何分盗人社会にては随分立派な男ゆえ、入って三日目に牢名主になりました。兼松も今度はとても首は無いのでございまするから如何なして今一返娑婆(しゃば)の風に逢いたいと、それより色々工夫を致して牢の床下の石を掘り出して大雨の夜に紛れてその場から抜け出しました。やがて囲み厳重の練り塀から外堀まで難なく飛び越えまして、その夜の中に中仙道の岡部まで逃げました。さて兼松は越後の国新飯田村惣七方へ尋ねんと存じましたが、中仙道は横川の関所が厳重でございますから、山越えに沼田街道へ掛りまして清水越えを致します。この清水越えと申しますは、余程の難所でございます。白日には往来はできませぬ身体ゆえ夜に入りまして段々と峠に掛りました。
185 かれこれ道の四里ものぼったろうと思いますると、月は木の間をもれて白玉を砕くが如く谷間の水音は木精に響いて物すごくございまするから、さすがの兼松も薄気味悪くあえぎあえぎて上りまする。向うより年の頃十八九とも思しき娘の顔色青ざめ、面部に少し傷を受け髪はおどろおどろと振り乱し、跳び足のままで参ります。兼松は一つ目見るよりぞっと身の毛立ち、思わず後へ五足六足下りました。女も共に驚き、これ後へ退りまして、しばらく両人にらみ合い、言葉もなく立っておりましたが、兼松は震えながら
兼「自己ぁ旅の人間だが、てめえは何の化け物だ。」
女「私もやっぱり人間でございます。仔細あって藤原まで参りまする者。」
兼「何だ、藤原まで行くのだと、そして年頃の娘が只一人、今頃この恐ろしい山の中を藤原まで行くと云うのは嘘だろう。」
女「それには仔細のある事でございます。」
兼「そばへ寄っちゃいけないぞ。」
186 女「御不審ならば一つ通り聞いて下さい。私は藤原の者でございますが、父は信州松本の浪人で金岡伊織と申す者でございます。永らく藤原に住居して剣術指南を致しておりまするが、その日のけむりも立てかねまする所から、私を六日町の金満家で阿部佐忠太と申す宅は小間使い奉公にやられました。すると主人が私をとらえて無体の■慕親の許さぬ事ゆえに、お断り申しますると憎い奴だと私を一昨日から裏の物置へ縛り上げ、聴いた時は許してやる、聴かない時はこの通りだと、木太刀をもって打ちたたき、ご覧の通り顔にまで傷をつけられました。いっそ死んでしまおうと覚悟を致した夕暮れに下男の厚情で縛られた縄を解いてくれましたから、ようようにそこを逃れ、藤原の父のもとへ参りましょうとなれた所とは云いながら、夜更けた上にこの深山を恐さも打ち忘れ、ここまでは参りました。何方へお出のお方かは存じませんが、どうぞ不憫(ふびん)と思召し、これから藤原まで私が送って下さいましな。」
と聴いて兼松は心地落ち着き
187 兼「何しろ気の毒な訳だ。してその藤原と言う処は未だ余程あるのかね。」
女「はいこの向うの山を越えて下ると藤原でございます。」
兼「それじゃ大した道でもあるまいからそこまで確かに送ってやろうが、己は勝手も知らねぇから案内をしながらおまえは先へ行きなさい。」
女「有難う存じます。お礼はいづれ内へ行って申し上げます。」と女を先へ立たせまして、
それより藤原道へ入りました。名にし負う山又山を登ったり下ったり兼松も余程疲れまして
兼「ねえさん、未だ余つ程あるかねぇ。」
女「はいもうちっとでございます。」
兼「何だか大変にくたびれた。ねえさん待ちな。己が先へ行く。」
兼松が先に立ちまして谷際を二町ばかり参りますると月は雲間に隠れましたから
兼「おや暗くなった。ねえさん危ないぜ。」と云いながら向うを見るとキラキラと四箇ばかり鏡の様の光が見えます。
兼「ねえさん、向うに光る者があるが、ありゃ何だぇ。」
女「あれまぁ大変でございます。あれは狼の目玉でございます。」
188 兼「何だ狼だと。大変な奴が出やぁがったな。さぁ後へ帰ろう。」
女「帰れば直に喰われます。もう仕方がございません。」
兼「そりゃ困った。後へ帰っても喰い殺される。前へ行っても喰い殺される。如何しても逃れる事はできねぇの。」
女「仕方がございません。」
兼「逃れられねぇと有らば仕様がねぇ。とても喰われて死ぬのならぁ、叶わぬまでも一番やってみよう。」
お町を後に囲み、飛びついたら一つ打ちに打ってくれんと拳(こぶし)を固めて身構えに及びました。二疋(にひき)の狼はオウオウとほえながら牙を噛み鳴らしまして兼松を見てジリジリと進み、寄りひらりと飛んで喰らいつきまするを、兼松は一生懸命夢中で一疋の狼が横面を打たんと致しまする。はずみ片辺の石に足が懸りますと、がらり石が崩れましたから、あーと云う中、千尋(ちひろ)の谷へ落ちました。二疋の狼は兼松の後に続き共に谷間へ飛びおりました。この隙にお町は危い場所を逃れまして、ようよう藤原へ帰りました。兼松は谷へ落ちまする時、下に猪小屋をこしらえ狩人が、焚き火を致しておりまする。
189 その屋根を突き抜けて中へどっさり落ちました。狩人は驚きまして
狩人「ああ吃驚(びっくり)した。何だ。おやおや人間だ。はてな人間の降りそうな天気でもないが如何したんだろう。」
と見ると兼松は気絶を致しております。
狩人「目を廻したか。」とやがて用意の気付を出し、口に含ませ谷間の水を汲んで呑ませながら
狩人「おーい、旅の人。」と耳に口を寄せまして呼びました。兼松は息を吹き返し
兼「うーん。」
狩人「気がついたか、しっかりしなさい。」
兼「有難うございます。誰殿でございますか。恐い目に逢いました。」
狩人「おまえは一体何処のお人で何処へ行くのでございます。」
兼「私は江戸の者でございますが、越後へ行くとて清水峠へ懸りますると、よんどころない訳で藤原と云う所へ廻る途中、狼に出くわし、そんでの事に喰いつかれようとしたをはずす機に谷へ落ちまして、はからず御厄介になりました。」
狩人「むーそして藤原の何処へお出でなさるのだ。」
兼「何処だか一向わかりません。」
190 狩人「自己の行く処が知れねぇじゃ困りもんだ。」
兼「そんなら貴方は藤原の方でございますか。貴方に聞いたらわかりましょうが、娘を六日町へ奉公にやったと云う方を御存じでございますか。」
狩人「私も娘を一人六日町阿部佐忠太と云う豪家へ奉公に遣わしやしたが。」
兼「それでは貴方は信州松本の御浪人じゃございませんか。」
狩人「如何にも、私は松本の浪人、金岡伊織と申す者だ。」
兼「それじゃ貴方の処へ参りますのだ。」
狩人「なに私が宅へ来るとは。」
兼「実は越後へ行こうとこの峠へ懸りました時に、向うから十八九になる娘が振り髪で参りましたのを見て驚き、仔細を聞けば奉公先の主人が無体の戀慕(れんぼ)、言う事を聞かないのを憤り縛り上げたその上で、木太刀でもって散々打たれたから死のうと覚悟をした処、下男の厚情で逃れ出して、藤原の父のもとへ逃げ帰るのだから送ってくれろと云われ、よんどころなく廻る途中、今の災難にあいました。」と始終を聞いて
191 金「それは不思議な事、娘を助けて下すったその人を、又ここで私がお助け申すと云うは、よくよく不思議なお縁である。それはさておき心に懸るは娘の身の上、直にこれより帰宅致そうから、そなたも同道しなすって、むさくるしくも今夜一夜は。」
兼「有難く存じます。どうか泊めて戴きたい。」
金「御一緒に。」と立んと致しましたが兼松は最前谷へ落ちました時、あっちこっちを打ちましたから身体がききません。伊織は見て
金「身体が痛いかの。」
兼「痛くって歩けません。」
金「それは困った。待ちなさい。」と鉄砲を兼松に背負わせ、伊織兼松を肩に掛け、ようようの事に藤原村の宅へ帰って参りました。見ると内には燈火がついておりますから伊織は門口から
金「娘ではないか。」
お町「お親父さんでございますか。」
金「むー無事であったか。」と兼松をいたわりながら上へ上りまして
金「委細の話説はたいがい聞いた。憎むべき奴は阿部佐忠太浪人。しても武士の娘に無体の戀慕(れんぼ)、その上ならずなお、縄を掛け打ちたたきを致すとは如何に無学の百姓でも余りと言えば非道の奴。」
192 お町「お親父さん、よくまぁ様子を御存じで。」
兼「御存じのはずでございます。ねえさん先程は。」と入ってきました。顔を見て
お町「おや貴方は先程私を送って下さった旅のお方、よくまぁ無事でいて下さった。」と不思議そうに顔を見ておりまする。
金「不審はもっとも今夜何か獲物をと、いらずの沢の片辺に鳥屋を作っているに、にわかに屋根を打ち抜いて前へ落ちたは、このお方。いやもう吃驚(びっくり)したが直に介抱して様子を聞けば、右の次第、まずまぁてまえにも別条なく、このお方にも怪我もなく、こんなめでたい事はない。」
兼「何しろ憎い奴は六日町阿部佐忠太とか言う者。私は越後の新飯田と云う所に惣七と云う人がございます。そこへ尋ねて参ります者。その惣七と云う人は随分相談相手になる人ゆえ、こっちのねえさんがこの様な顔にされる程、ひどい目にお逢いなさったその意趣晴らしは私ちが今夜こうして御厄介の恩返しに一つ肌ぬいてやりましょう。」
193 金「御親切はかたじけないが手荒い事を致しては後で誠に迷惑致すて。」
兼「手荒い事は致しません。この後こりごり致す様、何とか工夫を致しましょう。」
金「それでは何分宜しく頼む。」とそれより膳を出し、食も終われば間もなく夜もほろほろと明け渡りました。未明に兼松は出立を致そうと思いましたが何分身体が適ませんから、ことに七八日厄介に相なりましたが、よい塩梅(あんばい)に身体もなおりましたから、いよいよ越後へ出立の事になりました。なおも金岡親子六日町の仕返しを色々話を致し、新飯田村へ着き次第に由ると迎いを遣わしまするから、その者にどうどうある様にと固く約束を致し、藤原を出立致しまして越後の国新飯田村へ参りました。
これから惣七に逢いて仔細を語り六日町阿部佐忠太への仕返しは明晩申し上げます
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