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義侠の惣七
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三遊亭圓朝校閲 司馬龍生講談 (明治32年出版より)

敵討義侠の惣七 第16席

惣七の江戸

174 さて申し上げます。惣七兼松と深川亭の二階にて一緒になりました。船に乗り浅草今戸町の兼松の宅へ参りました。
「おやお帰りかぇ。」と出て来る女を見ますると、年の頃は十九か廿才位のあかぬけた女でございます。これは元深川仲町で芸者を致した朝霧の小富と云う別名付きの悪婆でございまする。只今は兼松の女房となり、共に悪事の語人でございまする。
兼「小富、今日は珍しいお客様を連れて来た。二階は奇麗になっているか。」
富「民老爺に掃除をさしておいたから奇麗になっております。さぁ貴方、この方へお上がんなさい。只今ご挨拶を致します。」
175 兼「さぁ上がっておくれなさい。」
惣「御免なさい。」と上へ上りますると、小富は先へ立って二階へ案内を致します。兼松も続いて上り
兼「惣七さん、この方が涼しうございますから裸体にでもなってゆっくり涼んでおくんなさい。」
惣「飛んだ厄介になって済みません。」と云う折柄、小富は酒肴を携えて参り
小富「何にもございません。ほんの有り合わせ物でございます。」
兼「小富、このお方は己の親爺の馴染み(なじみ)で越後新飯田惣七さんと云うお方だ。」
小富「お初にお目に懸りましてよく入いました。」
惣「こりゃお女房さんでございますか。思いもよらず飛んだご厄介になります。」
小富「どうか御ゆっくりと召し上がって下さい。」
兼「何でもよいから肴を早く持って来いねぇ。」
小富はハイと言って下へ降りました。跡に兼松惣七に向いまして、これまでの悪事の段々を物語りました。惣七は聴いて驚きまして
176 惣「人間は長い浮世に短い命だとやら、何でもやるがいいが、しかし人の物を取る事だけはよしなさい。自己も盆の上では随分人も殺したが、これまで人の物ちり一本取った事はない。やめられる事ならそればかりはよしなさい。」と云われて兼松は頭をかきながら
兼「段々御意見有難うございます。何所までもこんな事をしていられる者じゃなし。これから心を入替えて堅気になりましょう。」と話の中央に小富は肴を持って参り
小富「あんまり何にも無いから水貝を取りに遣りました。さぁゆっくり上がって下さい。」
と盃を差し、さて四方八方の話に時を移しまする中、小富は手をたたいて
「老爺や、お銚子ができたら持ってお出。」「ヘイ。」と酒を持って参りましたは年の頃五十位な男でございます。
兼「民五郎老爺、さぁこっちへ来て一杯飲みな。」
民「有難うございます。頂戴致しましょう。」
兼「老爺も越後だと云うがここにお出なさるお客様も越後だぜ。惣七さん、この老爺も若い時分には随分悪い事をした者だが、今じゃ仏の様になって内の厄介者でございます。」
177 民「初めてお目に掛ります。私は民五郎と申して、この方の兄ィの厄介者、お客様は越後は何の辺でいらっしゃるィ。」
惣「新飯田村でございます。」
民「新飯田村と云えば、お話が合いますが、私は元新飯田村の地頭沢海の足軽の息子で民五郎と申しましたが、同役の息子に数のかされ酒と女郎に身を持ち崩し、到底親爺に勘当受け、こんな身になってしまいましたが、散々悪い事をした中に忘れもしないのは、針ヶ曽根村と云う所に五十嵐藤右衛門と云う農家がありましたが、俗に云う貧の盗みとやら、その内へ二人で押し込んで金を取ろうとした所をお聴きなさい。その所に十二三の丁稚(でっち)がありまして、その子供の謀られて(はかられて)裏の肥溜(こいだめ)に突き落とされ命からがらに逃げ出しました。それから後はこりごりしまして悪い事はやめましたが、根がなまけ者ゆえ何のし出した事もなく、今じゃ内の厄介者。おーお酒の座敷で飛んだきたない話を致しました。ははは。」
惣「それではその時の盗人はお前かね。」
178 民「はい私でございます。」
惣「そうかその時、糞溜へ突き落とした丁稚(でっち)は己だよ。」
民「えーえ、その時の丁稚さんは貴客で、あーあ悪い事はできねぇなぁ。皆さん、お聴きなれたか恐ろしいもんだなぁ。」
と老人はしきりに溜息します中、惣七は懐中から金子五両取り出し
惣「おい民五郎とやら、悪い事はできねぇと気がついたか。こりや誠に少ないがおまえに遣るから今後はこれを資本に一文商いためしてなりと堅気になって一生を贈りなさい。」と云われて民五郎は涙を流し
民「有難うございます。おっしゃるまでもございません。もう悪事はすっぱりと思い止ります。」
折から聞こえる鐘の音と「ありぁ何時だ。」
兼「九つでございます。」
惣「それじゃもうお暇をしやしょう。」
小富「まぁよろしいございます。御ゆっくりと今夜は泊って下さいな。」
惣「宿でも案じていろうから、もうお暇を致しましょう。いゃ兼松さん、今日は大層ご馳走になりました。近々に国へ帰るから是非尋ねて来て下さい。」
179 兼「私ちもこう云う身体だから何時疾風に遇うかも知れねば、その時やぁ厄介になりに行きます。」
惣「是非来ておくんなさい。」と惣七は今戸町を出まして並木町の国太郎方へ帰りました。これより惣七のお話は申し上げる程の事もありませんから、しばらくお預かりと致し、兼松の方にては二三日立ちますると子分の富三と申す者が顔色変えて参り
富「他の事じゃありませんが、おめえさんとあねごが働いた悪事の尻がばれ、何時召し捕りに来ようも知れねぇ。」と確かに探ったから注進に来ました。
兼「ええそれは大変、ちっとの間もこうやってはいられねぇ。小富、支度をしろ。」
小富「そりゃ大変、如何しよう。」
兼「如何もこうもねぇから手前は川越安蔵の処へ逃げて行け。跡から己も行こうから富三、てめえは小富を送っておくれ。」
富「かしこまりました。あねご、さぁ早く支度をなさい。」
とこれから小富は手早く支度を致し、富三を連れて逃げ出しました。
180 兼松はそこそこに跡を取り片付け、門口へ出まする。途端閃く(ひらめく)十手と共に御用と云う声が懸りました。兼松一生懸命七八人群がり掛る捕人を右と左に突きのけまして闇に紛れて逃げ出しました。さて小富富三を連れ花川戸の川岸まで参りますると、向うから御用と書いた提灯が見えますから、脚に疵(きず)持ち二人は南無三と後退りしまして、遠州屋と云う船宿の軒下(のきした)へ隠れました。役人は我が提灯を見て隠れる者がありますから、傍らにいる捕人に指揮して
「それ召し捕れ。」と云うが否や五六人の捕人が御用と云いながら小富に組みつきました。小富は手早く頭にさしている簪(かんざし)を抜いて組み付いた捕人の目をねらって突きましたから、あっと両手を放す隙を見て東橋を向うへ越そうと橋の中央頃まで参りまする。向うより又々御用と云う声が致しまする。橋の前後を挟まれました事ゆえ、後へも先へも参られませんから、やがて欄干(らんかん)へ手を掛けまして身を躍らせて(おどらせて)川中へ飛び込むはずみに、運よくも一艘の屋根舟が橋を潜って出まする船首際へ飛び下りましたが、闇の事ゆえ一向にわかりません。
181 小富は息を殺し小さくなって潜みおりました。さてこの小富のお話は後編残る月影に至りましておわかりになります。お話元へ返り、兼松は大勢の捕人を突きのけ一散に逃げ延び、ようよう川越の江戸町安蔵方へ参り表口から
兼「安兄ィおるかい。」
安「いや兼松兄ィか如何して。」
兼「いや別に如何もしねぇが四五日こっちの内の厄介だ。」
安「疾風でもくらったか。」
兼「如何にも年貢納めの催促だが、小富は来ねぇか。」
安「まだ来ねぇ。」
兼「はてな来ねぇ訳はねぇが己より先へ富三をつけてよこしたはずだが。」
安「来ちゃいねぇ。」
兼「どうして来なかろう。途中でやられなけりゃよいが。」
安「気遣いもあるめぇ。まぁ息つきに一杯やんめぇ。」
とこれから酒を始めましたが、兼松はとかく小富の事が気に懸り少しも酔えません。
兼「兄ィ酒はこれ限りにして寝かしてくんねぇ。」
安「それじゃそうしねぇ。」と床を延べてその夜は寝てしまいました。
182 翌日の正午過ぎに表へ参りましたのは子分の富三でございます。
富「兄ィは宅かぇ。」
安「誰だい。」
富「富でございやす。」
安「むむ富か、小富は如何した。」
富「あねごでござんすか。今上がって話しましょう。」と草鞋(わらじ)を解き、足を洗って上り
富「さて頭、あれからあねごと一緒に花川戸の川岸まで来ると向うから御用提灯が見えましたから、遠州屋の軒下へ入ると御用と掛けられて私ちゃ直に隙を見て逃げてしまいましたが、あねごは何でも御用になったに違いあるめぇと跡から様子を聴いて見てもさっぱりわからねぇから、もしひょっと先へこっちへ来ていやしめぇかとやって参りました。」
兼「そいつぁ心配だ。如何かうまくその場を逃れておりゃいいが。」
安「左様、ああいう素早い女だから多分は相違いはあるめぇが、一日二日の中にゃ何とか様子が知れようから、まぁ落ち着いているがいい。」
とそれより三人はここに小富の安否を今日は知れるか明日は来るかと待っておりました。
183 さて政府にては、兼松小富を取り逃しましたから、五街道の口々は申すに及ばず、それぞれ探索ありまするが兼松川越へ参ったと言う足がつきましたから、直役人は川越へ乗り込んで参り、松平大和守殿の町奉行へ届けた捕人を借り受け、川越の町は隅々までも探索に及びますると、江戸町安蔵の宅にかくれおる事が知れましたから、大勢の役人がここに来たって手配りになりましたとは、安蔵の宅では露知らず、兼松富三が三人酒を飲んでおりまする処へ御用御用と踏み込まれ、兼松は南無三とは思いましたが、逃れるわけはと、大刀を抜き役人に向い捕人六人に疵(きず)を負わせ手痛く働きましたが、遂にこの場にて召し捕りになりました。直に江戸へ送るべき処、川越の捕人に疵(きず)を負わせました事ゆえ、調べ済みになるまでは川越の牢屋(ろうや)につながれました。
ここに兼松工夫を凝らして牢破りの一段は明晩うかがいます
沢海とは、旧中蒲原郡横越町沢海。
詳しくは、中蒲原郡と沢海藩へどうぞ。

松平大和守斉典(まつだいら なりつね)

1797年(寛政9)〜1850年(嘉永3)、武蔵川越藩 第4代藩主
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