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義侠の惣七
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三遊亭圓朝校閲 司馬龍生講談 (明治32年出版より)

敵討義侠の惣七 第14席

惣七と木山治六との遺恨

155 引き続いて伺います。国太郎お粂の二人は惣七の厚情によりて夫婦になりましたのを木山治六が聞き、大層立腹致しまして先前わざわざ口をきいた己の顔を潰し処の違った新飯田村惣七の顔を立て、夫婦にするとは憎い仕方いつかこの返報をして遣ろうと云うを幸兵衛がうすうす聞きまして、如何も二人を宅へ置けませんから、一度江戸へ遣ろうと思いまするに、幸い幸兵衛の弟は江戸浅草三軒町の越後屋嘉平次と申して、つき米屋を致しておりまするから、そこへ手紙を付て、国太郎お粂の両人を遣わしました。国太郎夫婦はやがて嘉平次の世話にて、同所並木町へ亀田屋と云う暖簾(のれん)を掛けまして煙草屋を開きました。さてお話は変りまして、惣七の宅にては妻のお高は文化の三年に雛吉と云う長男を設けまして、同じく五年にお若と申す次女を生みましたが、同八年に遂に病死を致しました。惣七の・・は大方ならん事でございました。すると観音寺久左衛門の子分で五郎と申す者が病死を致しまして、その妻さよと申して廿七でありまする。その子に年蔵と申して二才になりますこれを、久左衛門・・にして惣七の処へ年蔵を連れ子として後妻になりまして親子仲良く暮らしておりましたが
156 柏崎市椎谷の馬市 ここに椎谷と申す処に毎年馬市がございます。これもまた名代の大博奕が始まりまする。惣七もその場所におりまして帰路掛けに寺泊の割烹店桑名屋と申す宅の奥座敷きで一人で酒を飲んでおりまする処へ、大野町木山治六の子分で上州太吉と申して、ようようこの頃子分になって、まだ十日程にしかなりません駈け出し者が入って来ましたが、惣七の顔を知りませんから草鞋(わらじ)ばきでずっと通りまして
太「何でもいいから一杯つけてくんな。」と入口へ腰を掛けました。
下女「へい只今じき上げます。」と酒肴を持って参りました。これより太吉は銚子を替えて十二分に酔いました。舌で上唇をなめながら
太「おい内の旦那へ己ぁ上州の博奕打で近頃この国へ来て大野木山の子分になったんだが、越後と云う処は国は大きいが博賭は小さいなぁ。
157 馬市は大層だと云うから如何な博賭ができるかと行って見たら、何だあんな児戯行を見た様な事をしていやぁがって、あんな博賭は上州へ来ると毎日片っ端から出て来ていらぁ。そうして一疋(いっぴき)でも真正の博賭打ちらしい奴ぁねぇ生意気な事を言わねぇで獅子でもかぶってひっくり返っていやぁがるがいい。」
と酒が云わせる悪口を主人が聴いて奥に惣七が飲んでおりまするから聞こえなければいいがと心配を致しておりますると、惣七は手を鳴らし女中を呼びまして
惣「姉や、勘定はいくらになる。」
下女「はい有難うございます。三朱と二百文でございます。」
惣「左様か、つり銭はいらない。」と一武出しまして
惣「姉やまた来るぜ。」と仕度を致して出て参りますると
主人「まぁお静かにいらっしゃいまし。」
惣「毎度御厄介。」と云いながら太吉の前にある徳利を脇差の鐺(こじり)でもってわざと二三本ひっくり返しまして、素知らぬ顔をして黙って出て参りますから、太吉はこれを見て
太「やい盲人、人の酒をひっくり返して黙って出て行く奴があるが、何とか挨拶をして行け。」
惣「尻に目がねぇからわからねぇ。」
158 太「何だ、尻に目をくっつけて歩く奴があるかぇ。もうろくめが。」
惣「左様よ、越後の博奕打はもうろくだから挨拶の仕様は知らねぇが、強てしろと云うなら今挨拶をして遣ろう。」
とやがて拳骨(げんこつ)で太吉の頭を打とうと振りおろしまするを、太吉は何をすると後へ退きます途端に拳骨は太吉の目と鼻の間に当りまして急所でござりまするから、たまらず太吉は只一つ打ちに息が絶えました。惣七は南無三とは思いましたが素知らぬ顔で
惣「もし御亭主、野郎が気を失ったから水でもぶっかけてやってくれねぇ。」
主人「如何か致しましたかな。」
惣「なに如何もしねぇが酒に酔っているから目でも廻しやぁがったんだろう。」
とそのまま惣七はかれこれすると面倒と思いましたから、桑名屋を足早に出ました。後に家内中は太吉を色々介抱しましたが、更に気がつきませんから医者を呼びに遣りまして診察を受けますると、もはや絶脈したと聴いて家内一同驚き騒いでいまする。表は人立ちが致してがやがや云っている所へ参りましたのは、大野木山が一子分で白川の虎と云う博徒でござりまする。
159 虎「何だ何だ。大層人が立っているなぁ。何だ間違いかね。」
皆々「何だか知らないが大野木山の子分が今方、新飯田惣七親方に打ち殺されたと云う話だ。」
と聴いて白川の虎は人を押し分けはいって見ますると、太吉でござりますから桑名屋に主人に事の次第を聞き、惣七の跡を追いかけましたが、行った先がわかりませんから立ち帰って、駕籠(かご)を雇い、太吉の死骸を乗せまして大野へ帰って参りました。
虎「親分、新飯田惣七と云う奴、飛んだ野郎です。今日寺泊の桑名屋で上州の太吉惣七が打ち殺したと云った跡へ私が通り掛り、死骸は駕籠(かご)へ乗って来たが、こりゃこのまま打ち捨てちゃおかれますまい。」
治「この間、亀田屋の一条と云い、遺恨重なる惣七め、憎い奴だ。これから直に新飯田村へ。」
虎「私もお供を致しましょう。」
治「おう、ついて来い。」とにわかに支度を致し白川の虎を連れて新飯田村へ斬り込もうと出かけました。
160 お話は変りまして、こっちは惣七でございます。太吉を殺して直に観音寺村久左衛門の処へ参りまして門口から
惣「兄貴はおるかい。」
子分「親分は奥にいらっしゃいます。」と聴いて惣七奥へ入り
惣「兄貴、この間は。」
久「おお惣七、今椎谷の帰りか。」
惣「今帰りだが飛んだ事をした。」
久「何をやったんだ。」
惣「他じゃねぇが、今日寺泊の桑名屋で一杯やってると、その処へ来たのは大野木山の子分で、名も面も知らねぇ奴だが、上州者を鼻で掛けて、この越後には博奕打がねぇ様に悪口をぬかしたから、よんどころなく一つ打つと打ち処が悪くって遂にその奴ぁそのまま往生したが、兄貴如何しよう。」
久「そいつは飛んだ事をやらかした。しかし大野の方は己が如何なんでも納め様が、お上の方がこの度はちと面倒だ。と言うのは、先頃や三條青木道助を殺した時、己と長岡綱助とがようようの事で済ましたが、この時に役人が今度はこのまま下げて遣ろうが、この後こういう事があった日にゃなかなか只は済まされんから、よく当人に言いつけろとかたがた引導を渡されて来たから、
161 惣七、悪い事は言わねぇ、こうしろ。一つ江戸へ草履(ぞうり)を穿け(はけ)、手前の姿が見えなけりゃ、下で事済みにしてしまう。幸いこの間二ヶ月ばかり己の処に来ていたのは、江戸の浅草堂前で源太郎と云う貸し元、そこへ手紙をつけて遣るから、まあ二ヶ月三ヶ月行って来い。その中にその方が済めば手紙は直に出して遣る。そうした上で帰って来い。」
惣「それじゃ兄貴、おまえの云う通り左様云う事に決着しよう。」
久「それじゃ今新飯田おさよと子供を迎えに遣るから。」
と子分の中、心ききたる者を呼び
久「政吉、これから直に新飯田へかけつけ、おさよと子供を駕籠(かご)に乗せて連れて来い。そして宅へは子分の者を一人も置かず、彼のツンボの婆(ばばあ)を留守居に置いて来い。万一すると、木山治六が斬り込むかも知れねぇから、なるたけ急いで連れて来い。」
と言い付けられまして、政吉は大急ぎにて新飯田へ駆け付け、久左衛門の口上を述べ、おさよ始め、三人の子供を駕籠(かご)に乗せまして観音寺村へ立ち帰りました。
162 その後へ木山治六白川の虎を連れて来て見ると誰もおりませんで、当年六十五になるツンボの婆(ばばあ)が一人留守居をしております。
虎「やい婆(ばばあ)、惣七は何処へ行った。」
婆「今年で六十五になります。」
虎「こいつはツンボだ。」と耳に口を寄せ大きな声をして
虎「やい婆、惣七は何処へ行った。」
婆「宵に飯を喰って寝たばかりだ。」
虎「なぁにさ、惣七は何処へ行った。」
婆「左様さ、もう九つにでもなるだろう。」
虎「仕様がねぇツンボだ。」
治「虎、書いて見せてやれ。」
虎「左様しよう。」と畳へ字を書いて見せると
婆「私は字はイロハのイの字も読めないよ。」
虎「字も読めなくっちゃ仕様がねぇ。親分如何しやしょう。」
治「何しろ惣七の行った先が知れなくっちゃ仕方がねぇ。」
虎「せっかくここまで来て手ぶらで帰るのは残念でございます。」
治「残念だって仕様がねぇ。」と不屑に両人は帰りました。
惣七観音寺にて堂前の源太郎へ手紙をもらい、妻子を久左衛門に頼み、その夜の中に観音寺村を出立しまして江戸へ志す。途中信州の上田鍛冶町松江右一郎の宅へ尋ねると云うお話は明晩申し上げます
椎谷は現在の柏崎市椎谷
柏崎の情報「陽だまり」の椎谷の馬市
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