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道潟村の勘七こと小湊勘七は、
1812年(文化9年)2月2日新潟県蒲原郡道潟村(現:新潟市南区茨曽根)で生まれた農家の次男でした。

道潟村の小湊勘七

参考文献:『中蒲原郡誌』『あったてんがの いばらそね』(茨曽根地区公民館)
参考史料:『白根市史 史料編』1850年(嘉永3年)「茨曽根 下道潟新開場で傷害致死事件」より

勘七の奉公

表紙 勘七はもの心つくと上州の大地主ところに奉公に行き、10人くらいの奉公人の番頭になり、人の世話になるのが嫌いで親分肌だった。
 ある時、奉公人を連れて田んぼへ草取りに行く途中、お宮様の境内に酒売り商人が昼寝をしており、仲間の奉公人らが「一杯飲んでみたいなぁ」と唾を飲んでいたところ、勘七が「俺が飲ませてやる」と、商人が昼寝をしている間に飲ませてしまった。
 ある真夏の夜、仲間と共に博奕を打ったが、皆がスッカラカンの褌(ふんどし)一本になってしまい、帰り道に料理屋の前を通りかかり、誰かが「一杯やりてぇなぁ」と皆が褌一本と思っていたら、一人だけ着物を着ていた奴がいて、勘七が「お前、銭持ってるか」その男が「お前達が飲むくらいの銭、ちょっとはある」勘七は「そうせばお前、着物を脱げ」と勘七がその着物を着て店へ上がると、「暑い暑い」と裸になり、着物を外に投げ、外にいた連中は替わるがわるその着物を着て店へ上がり、褌一本の酒盛りとなった。
 またある時、博奕をしている所へ国定忠治が賭場荒しに来て、「場銭を出せ、全部出せ、残しゃがると命はねぇ」と長物を抜いたそうだ。仲間達は皆出したが、勘七は足袋(たび)の中に銭を突っ込んで知らん顔。運よく忠治に見つからずに銭も命も無事で、国定忠治は足袋を脱げとは言わなかったそうだ。
 奉公を終え、道潟村へ帰る途中で会津若松に泊った所、おぎんという同じ村から出た芸者に会い、「私ゃ身売りされて来て、借金を皆返し上げ、かたぎになったのに、帰してもらえないので助けて」と頼まれ、勘七は「俺もお前と同じ道潟へ帰る途中だ。この場は俺の女房という事にして、お前を迎えに来た事にしよう」と連れて帰ってきたそうだ。
 道潟の勘七の兄が占いを見てもらった所「お前は何月何日死ぬ」と言われ、「それなら田畑皆飲んでしまう」と言って、毎日芸者遊びして財産が無くなり占い通り死んだそうだ。それで兄の女房は金に困り家を売りに出したが因縁がなく売れなかった所、ちょうど勘七が帰って来て、勘七と兄の女房が結婚したそうだ。

勘七の潟騒動

道潟の勘七 勘七が帰って来た頃、道潟は潟の干拓が盛んで、丸海潟の新しい土地の所有権や水利権で茨曽根村(村上藩領)と隣村17村民(新発田藩領)とで対立していた。時に1850年(嘉永3年)に、茨曽根村(村上藩領)の庄屋関根倉之丞と数百名は開拓地に乱入し工事を中止させようとして新発田藩の監督役人徳次郎に迫った所、徳次郎が白刃をもって関根倉之丞に迫り、互いに入り乱れて格闘した末、徳次郎は誰かに深く腹部を抉られてしまい、上道潟村の栗原仙右衛門の家へ逃げ込んで手当したが死んでしまった。
 これが表沙汰になっては大変な事になると、百姓が斬ったとなれば穏便に済むと、百姓が鎌で斬った事にして勘七に罪をかぶってもらう事になり、
1857年(安政4年)に勘七は、「吾生まれて46年、一郷のために侠骨を試みしとあらざりき、人世果して50年を限とせば、わが余命これ知るべきのみ、一村の福利を増進するを得ば死すとも遺憾なし」と自ら徳次郎を斬ったと名乗り出て罪を負う事となった。勘七が出雲崎の牢屋へ連れて行かれる時は、村人が村境まで見送ったという事だ。
 勘七は牢獄に投ぜられ、獄則を守り、他囚の中では模範囚で牢名主となり、在獄すること十有余年にして1868年明治維新に会い恩赦にて帰り、郷人達迎えて厚くこれを遇したそうだ。1885年(明治18年)某月、病に倒れ自宅で亡くなったそうだ。行年74歳の生涯であった。
道潟の勘七に関する資料や史料を探しています。
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